雑感

昨夜、お釈迦さまのことを考えていたので、続きではないが、まんざら無関係でもない話をすることになりそうだ。

 

二つの方向が見える。一つは、「見方を変える」という話につながる、ものの見方ということ。もう一つは、仏教はなぜインドで滅びてしまったのだろうか、という方向。私の中では、糾える縄の如く、切り離しがたいのだが、書くとなると、別の問題として取り上げるしかないのだろう。

 

ペルーに居た時、日本語を勉強したいという子供に沢山であった。彼らの大半は、アニメファンであり、男の子は「ドラゴンボール」が大好きだった。私の読んだころのドラゴンボールは、小さな子供だったのだが、彼らの見ているのは、大人のドラゴンボールであった。昔の漫画ではなく、今のアニメ。

サッカーに熱中するのと同じなのかもしれない。パワーを全開にする・・・どこかにぶつける。

小説家・芸術家は、滾る情熱を作品を生み出す中に昇華する、という。

ぶつかりあう中に解消する行き方と、静かに燃焼する行き方と。

 

ま。情念。これが、人間の根源のモノなのか。こいつを振り回すか、振り回されるか。太古から、このパワーに手を焼いているのが人間なのかもしれない。

 

お釈迦さまは、これを全く相手にしないで消滅させようとしたように見える。

四つに取っ組み合ってねじ伏せるという行き方もないわけではないが、自分の根源的な力を自分の力でねじ伏せるというのは、なかなか容易ではない。

お釈迦さまの真似をしようとすると、そこに嘘が混じる・・・・嘘をつきたくなかったら、この力を有意義な方向へ振り向けるしかない。有意義な方向とは現実社会の中での活動だから、必然的に階級社会化してゆく、教団の理想の崩れが始まる。

 

ところが現代、その有意義な方向というのがぐらつき始めている。

 

頭が尻尾にかみついた堂々巡りのような、パワーの使い方しか残っていないのだろうか。

あっけらかんとした、パワーの肯定は、少しの影もない光は、紛糾してくると、それが求められそうだが、有り得るのだろうか。そういう思いは、お釈迦さまとはN極とS極のように反発しそうだ。

 

私には、お釈迦さまはパワーの否定(否定しても在るように見える情念)から歩き始めたように見える。

 

 

 

(殆ど読み手が居ないので)自分が分かればいいような、雑なメモ風な書き方になっているが・・・・きちんと書こうとすると根気が続かない。