その続きを。
「阿含経典」を読んで、「碧巌録」などを読むと、そのギャップに戸惑う。
中間に「維摩経」を挟むと、それなりに繋がるけれど・・・・
時間が経過するということは、問題そのものが変化するということでもあるのだろう。
維摩経の主人公は、大金持ちの大商人で、国をも動かす力を持っている。それが、お釈迦さまの弟子たちを叱り飛ばす。そういうところから、大乗仏教は始まっている。
自分が修行に専念していた時には、歴史はほとんど関心外だったのだが、今歴史的興味を持つようになって眺めると、全然別の風景が見える。
今関心を持っているこれは、学校で教えられるような知識なのだろうなあ。
確かに、お釈迦さまのお弟子たちは、何の技量もないだろうから、時代の要求に応じるのは難しい。目にはモノを見ないようにし、耳には音を聞かないようにし・・・・てきたわけだから。墓や森の中で生活していた。そこから、写るものを写るままに、見たものを見たままに、というところに出るのは、簡単ではなかっただろう。町の中・人の中に出てくるわけだから。・・・引きこもりが外に出るような難しさがあっただろう。