書くかどうか迷っている(よく知らないから)ようなことを書こう。
『碧巌録』を読んでいて、いろいろなことを思う中の一つに、真空妙有、空を悟ったうえでの働き、があるのだが・・・その先は?
社会の中でその人なりに精いっぱい働いた後で、活動領域を縮小し、棺桶に入る、そのあたりの事は?親と一緒に住んで、その後一人になってからの人生は?
視野に入っていたのだろうか?どうも、広い世界に出てゆくことばかりで、そこから引っ込んで一人を生きる、ことの問題意識が希薄なような・・・・
今までの世界(仏教的視界)では、活動している最中に倒れてしまうことが暗黙の前提だったような気がする。それは平均寿命が短かったことと、仏教が為政者や商人に支持されて拡大したことと関係しているのだろうか
医療の現場では、ケアする側の問題は聞こえてくるのだが・・・衰えてゆくその人の問題は二次的なような気がする。
・・・むしろこういう個人的な問題と見られることは『阿含経典』のほうが親しいように思われる。小乗と貶められてきたのだが、それこそが釈尊の最初の問題意識に親いのではないか。そしてこれからの高齢社会、《妙有より真空が》大切になってくるのではないか
あれこれ思うのが楽しい。そういうことです。