依草附木の精霊

ま、早い話が幽霊である。生きているのか死んでいるのか分からないような生き方を叱る、言葉である。

 

禅では、五欲に振り回される生き方の息の根を止めて、死に切ったところから、再び生き返り、新たな生き方をする、ことを志向する。

簡単に言えば、≪世間に後から来たものとして入れてもらえるように、一所懸命頑張る≫ような生き方から、≪世界とオレは同時に誕生したワンセットである、オレが世界を作り世界がオレを作る。これは、同じものの両面だ≫というような、生き方へ。

だから、きわめて主体的であり、幽霊のような生き方を否定的に見る。

 

世間に後から来たものとして入れてもらえるように頑張るのも、悪くはない。しかし、それは世界と自分をそういうものとして(キミが)見ているということであり、それは一面であることは忘れない方がいい。というような感じかな。

・・・だから、世間の中に受け入れられようと藻掻く自分は消え(私の感じでは、相対化され、と言いたい)、世界そのものを主体的に捉える自分が生まれる(世界を見ているのは自分だ、と)。勿論そんなに単純ではないけれど・・・。

 

其処から見ると、依草附木の精霊というのは、きわめて否定的です。

いわば、生きていない。だから、幽霊と言われる。

しかし、寿命の途中で前のめりの倒れるのが普通の時代から、寿命が尽きて死ぬのが当たり前になってくると、どうなんだろうか、見直す必要はないだろうか。部分的手直しでもいいのだけれど・・・・大原則は変わらないが、時代を反映した物言いの部分は多くあるわけで・・・・

 

ボクなどは、積極的に幽霊になろうとしているようなものなので・・・

 

積極的な幽霊というのは、意味不明な言葉だ。どうしても、言葉というのは一つの価値体系の反映だから、そこから外れたことを言おうとすると、過度に饒舌になったり、「頭悪いなあ」という物言いになったりする。私は後者かな、頭悪いし