思い

生きてきた過程で出会ったことは、すべて、記憶の奥底に仕舞い込まれている。それは確かかも知れない。・・・そして、それはその時々の思いと切り離せないような気がする。どんなに善いことをしても、修行しても、その古い記憶を消しゴムで消し去ることも、上から新しい色を付けてしまうことも、出来ないのではないか。

 

写真をピン止めするようなことはしてこなかったのだが、今老齢を迎えて、いわば時間が止まってしまった。完全に止まるなどということはないのだが、閑さのなかに居るので、折に触れて、過去の記憶が呼び覚まされる。

 

今まで同様、それを新しい時間の中に入ってゆくことで、忘れてしまうこともできるのだが、その追憶の中に入ってみようという誘惑も大きくなってきている。

 

歳をとって、終身刑の受刑者が、過去の罪に苛まれるのと同じように、受刑者ではないけれど、過去の罪に苛まれる。この罪というのは、国家の裁きではなく、良心の裁きというのだろうか。いわば、暗黙の裡に自分を導いてきたものが、自分を裁く。

 

死ぬと閻魔さんに報告する役目を負った、虫のようなものが取りついている、という話があるが、長生きした人が思いついたことかもしれない。ま、お坊さんのでっち上げかも知れないが、まんざら嘘とばかりは言えないような。

油断すると、毎日罰を受けるような生活をすることにもなりかねない。

 

ドラマなどで、死んだ友も、私の心の中で生きている、とあたかもいいことのように語ることがよくあるのだが、確かにそうだけれども、それは好い事ばかりではないよ、と教えてあげたい気がする。

心の中には、好いことも悪いことも、その背景も、すべて記憶される。よい思い出だけを記憶しようというのは、意識中心の、勝手な思い込みだよ。

それに押しつぶされたり、復讐されないためには、心について、よく知っていなければならない、と思う。

 

それでも、歳をとってくると、不意打ちのように、記憶の底から、完全に蓋をしていたような記憶がありありと思い出されてくる、ということがある。ホラー映画のようではないか。

 

坐禅よりもお念仏が親しくなる・・・・???

 

無常だから、心の見せる風景は、若い時とは違ってくる。心と意識のずれが、隙間を開け、馬鹿な情景を展開したりもするが、命は生きている限り、退屈しないように働くということか