こころ

華厳経に、『こころは巧みな絵師が、さまざまなモノを描き出すように、一切の世界の中に、法として造らないものはない。』という言葉がありますが、歳をとるにしたがって、こころというものを、思うようになってきました。

夏目漱石に『こころ』という作品があります。華厳経と何か関連があるのかもしれませんが、私は、残念ながら、読んでいません。手元に、夏目漱石全集(角川書店)の第11巻、『こころ』は置いてはあるのですが・・・・もう10年以上置きっぱなしです。

この世を、モノの世界として、単純に割り切ってみてゆくこともできる。そんなに単純なのだろうかと、疑問を持ち、それを否定することも、ちょっと立ち止まって考えてみることも出来る。全部じぶんのこころの働きでしょう。

といって、自分が作り出した働きではない。自然に疑問が生まれ、決断する。そこに、時が関わる。多分決断すると、後戻りはできない。

決断すると、昨日までの自分と、少しだけモノの見え方が違ってくる。多分、思い出す過去も、想像する未来も、思い出す知人の顔も、昨日までとは微妙に異なってくる。

実は、決断が昨日と今日を分けると言いましたが、本当のところ、決断は、絶え間なく、刻刻なされている。意識されるような決断ではない、微妙な決断の連続。車を運転している時には、それは実によくわかる。前の車がなんかおかしい、距離を取ろうか、追い越そうか。後続車はどんな様子か。次の信号で別の道に入るか。歩行者はどうか。

それと似たようなことが、いつも行われている。絶えざる決断の連続、というより、連続ではないかもしれないが、決断をしているのである。

その度に、この私の判断は微妙に先ごろとは違ってくる。いわば経験が蓄積されてくるからである。

経験が、良いことなのかどうかは知らない。よい事と思うことは出来る。経験で何かが失われると考えることも有り得る。こころは絶えず働いて、決断を繰り返してゆく。

昨日と今日はさほど違わない。しかし、一年前と一年後では違っているかもしれない。10年前と10年後だと、ずいぶん違ってきているかもしれない。思い出す過去も、見つめる未来も、付き合う環境も・・・・

巧みな絵師が絵を描くように、すらすらと、絵を描いているのだが、あまりにも無抵抗に、すらりすらりと、転変しているので、気づかない。気づくのは大抵、左の端の方に行きたかったのに、右の下の方に来てしまったなあ、と感じるようなときである。余りにも近視眼的に目の前だけを見ていたりすると、途中で枝道に入り込んだことに気づかず、気づいた時には、引返しようがなくなっていたりする。

目の前を見ると同時に、高いところからの鳥瞰の眼を持ち続けるのは難しい、というのも、私の経験が私を変え続けるからである。

目を近づけすぎると、感覚の誘惑に負けそうである。

 

こころが、コロコロ転じて、生きている。その心の中には、一切がある。ドラえもんのポケットではないが、過去も未来の遠いところも近いところも、微細なものも、何もかにも。そこから、私たちは自分に必要なものを取り出して、生きている。

その必要なものが、目先の感覚の満足だけなら、たぶんそれほどのポケットは必要ないかもしれないので、その存在すら気づかないかもしれない。しかし、欲望のためにはありとあらゆる知恵が必要とされるかもしれないので、やはりドラえもんのポケットが欲しいところかもしれない。

この欲望の対象というのも、どうも自分が作り出していると私には思えるのだが・・・

 

まだ、書き始めたばかりだが、今日はここまで。明日続きを書くかどうかは未定。