こころ つづき

昨日は調子が悪かった。何もする気が起こらなかった。急に気温が上がり、気圧が変化したせいだろうか。

歳を取ると、落ち葉のようなものだから、ちょっとした風で、左へ右へと動き回る。

今日もまた、絶好調とはいいがたいが、ま、そこそこ、かもしれない。

 

あまり間を開けると、この間書いたところを忘れてしまうので、続きを書こう。

 

こころには、広さも深さも、あってないようなものだが、ま、一番表面的なのが、多分五感、とくに目の刺激であろう。

子供の時には、男も女も大人も子供もあまり区別なく、遊んでくれるのが友達のようなものだった。それがいつの間にか、区別が出来て、同世代の女の子は特別な存在になってきた。そういう期間が長く続き、今や、男も女も子供も大人も、あまり区別がなく、希薄な関係になってきた。それは、長続きする関係を保ちがたいという自覚から来ているようだ。この世との関係そのものから気持ちが離れつつある。

匂いなども、子供の頃は、人のうんこの匂いと、馬のうんこの匂いと、食べ物の匂いと、区別はつくが、好悪はなかったように思う。ところが、年ごろになって、女のいい匂いが特別に感じられる頃になると、うんこの匂いは、嫌いなものになっていったように思う。そのころ、ある文化人の、文明の尺度は水洗トイレの普及で計れる(そんなことを言った文化人がいたっけか?)という言葉に触れ、水洗トイレになるのが待ち遠しかったと記憶する。

音も、雑音と楽音と、違うのは分かるが、好悪はなかったように思う。ところが、音楽を教えられて、クラシックなど聞いて感想を書かされる頃になると、雑音とか、そういうことが気になりだした。いまは、あまり気にならない。真夜中に花火をあげたり、シャワーの音、時に音楽に合わせてタップする音の一晩中聞こえる環境に暫らく居て、潔癖性が洗い流されたせいかもしれない。

子どものときは、どんなものを食べても、美味しかった。いつも腹をすかしていたから。そのうちに、めったに口に入らない珍しいものが美味しいと思うようになり、今は、淡白なモノ、柔らかいものが口に合う。美味しいかどうかが判断基準ではなくなってきている。

たかだか、5、60年の間に、ボクと世界はかくも大きく変わってきている。ボクが変わっただけではなく、ぼくの見ている世界も変わってきているということだろう。

これは表面的なことだが、もっと別なこと、見ている世界、とか、自分は何者か、とかちょっと高尚な、難しそうなことでも、同じことだ。

日本語で考えているのと、スペイン語で考えているのとでは、ずいぶん違っていて、翻訳不可能なのではないか、などと、専門家でもないのに、悩んだこともある。

こどもが「おじさん、大好き」というのと、「テキエロ(あなたがほしい)」というのでは、本当に同じことなのだろうか・・・お互い、それが唯一の表現法だと思い込んでいるのだろうが・・・・

知らない間に、その国(生まれ育った国)の言葉を覚えて、それで不自由していないのだが、これはトンデモない先入観をもってモノを見ることを運命づけられているということではないのか。

アメリカ発のドラマなど見ていると、そうとう違和感がある。(これは現実ではなくドラマだからなのか???)

しかし、では、どうすればいい???

既に混沌に孔をあけられてしまっているような自分を発見して。お互いに。

(このまま話を進めれば、世界は一つではなく、人の数ほどある、ということになりそうだが・・・)

 

これを美味しいと感じるのはどうして?これを気持ちいいと感じるのはどうして?

美味しいのを享受し、気持ちいいことをして、世を送るのが、生きていくことなのか。(そう感じ、そう思う時期も確かにある。一時の思いであろうけれども)

 

疑問はつぎつぎ出てくるが、生きていることとは、微妙にずれている。

本当は、もっと開かれた、天井も底も無い世界の中で気ままに生きているのに、こうして書いていると、つい限定した、問題をつくりだすような書き方をしてしまう。これは、言葉がそういう性質を持っているのか、私がそうなのか。