12月8日

今年の夏、『ルーズベルトの開戦責任』(草思社文庫)を読んだことを思い出した。

この本はいろいろなことを考えさせてくれたのだが、ここで思い出したのは「ハル・ノート」との関連である。

日本人が書いたものではない「日本」関連では、いま読もうとしている本がある。

『亡命ロシア人の見た明治維新』(講談社学術文庫)『回想の明治維新』(岩波文庫)(ともにロシア人メーチニコフ)相当面白そうである。

この間司馬さんの本を読んでいたのだが、途中で投げ出してしまった。何故か、ぜんぜん違う環境で育ち当然ちがう考え方をしている人の書いたものを読みたくなったのである。

 

今日は、お釈迦さまのお悟りを開かれた記念日である。約2500年前の事であろうか。

今世紀に入り恐竜の化石発見が相次ぎ、そうとういろんなことが分かってきているようである。大きさと言い力と言い、当時の生物の頂点に君臨した恐竜の中には、一億年の長期にわたったものも居たらしい。勿論個体は100年も生きてはいなかったのだろうが。

力の誇示ではなく、ただ黙ってじっとしているような生き物も居たのだろうか。たぶん沢山居ただろうと思う。

お釈迦さまの足跡を世に現したのはアショカ王である。大菩提寺の元になった坐禅石を据えたのも彼であった。

アショカ王のおかげで、お釈迦さまのことも知り得るのだろうと感謝しているのだが、逆に、光を当ててしまって見えなくなってしまった、とも思う。光を当てなければ見えたであろうところが・・・

事実と思想と。しかし思想なしにモノを見るということは可能なのか

井筒俊彦さんの本などを読んでいると、思想にこそ価値がある、と思わされるのだが。

 

今度の摂心は、坐りやすかった。身体が5キロちかく軽くなったお蔭が大きいかもしれない。みぞれが降るように冷え込んだことも関係しているかもしれない。もう何回も坐れないかもしれないと感じているからかもしれない。

いろんなことが絡み合って、「比較的坐りやすかったな」という感想になっているのであろう。「おかげさまで」