今の時期になると、毎年、母を思い出す。亡くなって40年以上になるが、記憶の中で生きているということがよくわかる。
この間読んだ司馬さんの本の中に、まだ100年に満たないことは歴史にはなっていないので書きにくい、という言葉があった。誰か生きている人の記憶の中で生きているからである。生きている人の事は書きにくいということだ。
生きている、ということは、変化しているということでもある。
私の記憶の中で、母も随分変化している。鬼のような母親から、弱々しい、子供を思う母親像まで。権力をふるう母から、子供におびえる母親まで。
一体どれが本当の母親だったのか、と思うが、多分どれも違うのだろうと思うところに落ち着く。似てはいても、違う。
それは、自分は何者か、と問う時と、似ているようでもあり、全然違うようでもある。
意識の光を当てるというのは、なかなか曲者だなあと思うと同時に、全体像を描こうとする意識そのものが、根拠のないものなのではないかとも思える。
母は優しかった。それを、歪めたのは、多分私の業なのだ。
ま。年末になると、母の命日前後に、いろいろと、思うのである。