『ポリアーキー』

近代において、理念やイデオロギーを表す言葉として民主制という言葉は、使われすぎて、歴史的経験としての民主制国家を指示する適切な分析用語とはいえない。

ポリアーキーは、現実的な分析概念である。それは、権力に対する組織的、公的な反対の自由と広範な包括的な政治参加という二つの基本的軸で形成された一群の歴史的政治体系を指し示す言葉である。その反対の極には、抑圧体制が置かれる。すべての政治体制は、このポリアーキーから抑圧体制へという潜在的な連続体のどこかに位置するというのが、著者の基本的仮説なのである。この本は、こういう政治体制の位置の分かれ目が、どのような条件に由来しているかを分析しようとする実証的な研究であり、同時に、抑圧体制をポリアーキーへと変化させるには、どのような戦略を立てうるかという示唆を含む点では、規範的な研究であるともいえるだろう。

(翻訳者のあとがきの一部を抜粋した)

 

この本が世に出たのは、1972年。この本の中でアメリカは、近代民主主義の発祥の地でありながら、ポリアーキーとは位置付けられていない。準ポリアーキー

民主制のようでありながら、国家の中に差別集団を持ち、その集団に対しては、抑圧体制でもある。

21世紀の現代のアメリカを、著者はどう見るか・・・

 

公的な反対の自由ということでは、戦前の日本を考えてみると、議会があり、そこでは、反対意見も言えるように思えるが、実際は、陸軍大臣海軍大臣)が決まらなければ(軍が出さなければ)、組閣も出来なかったというような、体制であった。

この本の中には、アルゼンチンなどでは、議会が全会一致で決議したことが、有力者によって完全に無視されるというようなことが書かれてある。

それについて思い出されるのは、私が居た村では、村の集まりで全会一致で決めたことが、出席もしていない一人の有力者の反対で、反故にされるということがよくあり、議事録も取らない(多分意味がないから)というようなことであったことを思い出す。

反対意見が自由に言えるというのは、日本でも、なかなか保証されないことのようにも思います。

 

なかなか面白いことが沢山書かれてあるのだが、ちょっと数行で書けるというものでもないので、ま、興味があれば、自分で捲ってもらうこととして、一言だけ。

 

私は、野党が安倍さんの桜を見る会をちまちま攻撃しているのを、どうでもいいようなことを・・・と思っていたのだが、この本を読んで、権力者の陥りやすい公私混同を、きちんと説明させるというのも、大切なことなのかもしれないと思うようになりましたね。

そのほか、書こうと思ったことはまだあるのですが、書いているうちに忘れてしまったり、説明しにくかったり・・・ま、これぐらいで、と思います。

 

こういう形で分析すると、わかりにくく、胡麻化されているのではないかと思えた、いくつかが、ちょっとだけですが、分かりましたね。具体的には書きませんが