雑感

ダーウィンは、「種の起原」を書くために、言葉自体を作らなければならなかった、と。全く新しい分野の開拓というのはそういうことだろう。明治の頃の、翻訳言葉を作る苦労を読んだことがあるが。

「ジャーナリスト、文筆家、商人、ビジネスマン、教育家、一般の男女が、・・・、牧師も、詩人も、イヌの世話人も家庭教師も、種の起原を読んだ。とある。」

 

この前の「スタップ細胞」騒ぎや、メーガン騒ぎを思う時、彼が論争を避けたことはとても賢明だったとおもう。たしか自叙伝では、ライエルの忠告によると感謝していたような記憶がある。

私は、種の起原は、そうとう細心の注意を払って書かれた書物だと感じる。本当は、生前には発表したくはなかったのかもしれない。でも、発表せざるを得なくなってしまった、そういう時代になっていたということだろう。それで発表用に書き直した。

(先取権ということでは、ガウスとアーベルのことなどを思い出す。)

 

一般の男女が読んだというのは信じがたい。新聞書評か何かの、口コミではないのか。たぶん、口コミだろうとおもう。・・・ボクは随分苦労して読んだが、どのぐらい理解できたか自信がない。ボクは150年後の人間なのだが。

・・・ダーウィンは、一言も書いてないのだが、人間の先祖は猿の親せきかもしれない。そして、神の創造ではなく、自然の中で、適者生存の原理で生き残ってきているのだと、新聞書評などには書かれていたのかもしれない。

これは、彼は直接書いてないが、ダーウィンの本心に近いだろう。

 

また、次の世紀に優生保護という問題が起こるのだが、これはダーウィンの進化論に内在する問題(飼育栽培)のような気がする。人種問題もそんな気がします。

 

だから、一度はダーウィンは歴史の中で消えた。

今のダーウィンは、別な文脈の中で生き返ったのだろうが・・・進化論はやはり、科学の中だけでとどめておくことは無理のようである。

それは歴史の中で、聖書が信仰の書というだけでは済まなかったように・・・