つまらない妄想

風呂に、盲導犬の写真付きカレンダーが貼ってある。胴輪をつけた状態のゴールデンレトリバーである。優し気な目をしているというのか、悲しげな眼をしているというのか、訴えたいことがある目というのか。

飼っていた犬の事を思い出した。・・・ボクに気に入られようとして、血みどろの努力をして、一匹は、芸を覚え、もう一匹は、ボクの姿を見るとおしっこをちびるようになってしまった・・・

人付き合いの苦手な人が、他人を怖がらせてしまい、相手がおべっかを言う太鼓持ちのようになるか、お金を貢ぐようになるか・・・・

私がだんだん犬の事が分かるようになるに従い、私の彼らに対する態度が変わると、彼らの態度もまた変わっていった。

ボクは彼らと親しむにつれて、彼らが言葉を喋れないだけで、思っていることはボクとほとんど違わないのではないかと思うようになっていった。

家畜というのは野生の生き物ではない。野生の生き物ではないというのは、自分の生きてゆくために必要な食べ物を自分の力で得ようとする気持ちが無くなって、飼い主の顔色を窺うようになっていることだ。

イヌの表情を見て、人間とほとんど同じと感じるということは、野生の動物も野性味を失い、ペット化すれば、考え方が人間とほとんど同じになるということかもしれない。

人間は言葉を喋る。しかし、そういうことを今は無視して、五感で感じたところを意識して判断する、ようなレベルでは、ほとんど同じではないかと。

すると、美的感覚も似ているかもしれない。ボクたちは視覚をよく使うので、見て美しいということを中心に考えるが。彼らも彼らなりに、美しい、というような感想を持っているのではないか。

クジャクの羽はメスに見せびらかすために発達したという。あれを美しいとクジャクも思っているのだとすれば、私などとは少しは違うのだが、美的なものに価値を置くということでは、よく似ている。・・・・・

金魚をペットと考える人もいるという。金魚を見ていて、意思疎通がはかれるとはボクは思っていないが、川の中に居る鯉などは、オレとさほど違わないように思うこともある。カラスなども、ボクが散歩しながらキョロキョロしているのとさほど違わない。電信柱の上からボクを見下しているようなところも、高いところに上って下を見た時(視界が開けるので)誰にも自然に起こる感情で、同じようなものだと。

 

坐禅など長いあいだしていると、生き物は全て同じ一つの命を生きているという気持ちになるのだが、・・・勿論違いも大きい。でも、その違いというのは、《食ってゆかなくてはならない》、そのために知恵の違いのような気がする。

そういうことを外してしまえば・・・要は家畜のような立場(食い物の心配をしない)でものを見れば、〈極めて似ている〉のではないか

 

日向ぼっこしているマムシなどをみていると、爬虫類はかなり似ているような。

 

(まだ途中だが、中断します。行き先を見失ってしまったので。もっと風呂敷を広げたい気持ちもあり、落しどころを考えなければならないような気もするし)