「悪魔の証明」という言葉がよくドラマなどで使われますが・・・人間と動物の連続性、つまり、人間がものを認識し思考することと同じような働きを動物にも認める、これは、認めない人にそれを認めさせることは至難の業であることが感じられます。
これを認めれば、私のように、単細胞生物にも、連続して、認識している働きを認めることになる・・・証明は難しいでしょうが。
つまり、人間と動物のところで線を引くことが一番無難なのかもしれません。無難だとしても、その線を引くことは正しいのか・・・
『証拠』・・・これがなければ、一つの意見のようなものだ。単なる観察では、解釈はいろいろ有り得る・・・
こんな問題に何十年も関わり、工夫を凝らして、証明する。その苦労話満載。
男と女の性差もない、というような、現代人の常識のようなところから、著者は歩き出したようである。
今西さんと京都大学のサルの研究者の事もところどころに出てくるが、彼らがヨーロッパの主流派からいかに見られていたかも、興味深い。
立ちふさがっている壁がないところでは、乗り越えるということもあり得ない。ふと、そういう言葉が思い起こされます。
雑然と感想を書きましたが、いちおうこれはここで終わり。
追記:
p351に、ダーウィンの100年以上前に述べられた、D・ヒューㇺの言葉が載せられている。
【動物の外面的な行動が私たちのとる行動と似ていることに鑑み、私たちは、動物の内面も私たちの内面と似ていると判断する。さらに、その原理をもう一歩進めれば、こう結論づけざるをえなくなるであろう。すなわち、互いの内面の動きが似ているということは、それらを引き起こす原因も似ているにちがいない、と。よって、心の動きを説明するために何らかの仮説を唱道する場合、心の動きは人間と獣に共通するのだから、その仮説を両者に当てはめなければならない。】
なんとスッキリした言葉だろうか。へんなところで線を引いたりしなければ、このように素直に考えられる。だから、こういう人も多くいたのだろうが、宗教が絡んで、とても難しいことになってしまっていた・・・。その壁を乗り越える努力で得られた成果も少なくないだろうが・・・・。