『現代ドイツ』(岩波新書)

面白かった・・・と言っていいのかな。いろいろ考えさせられた、と書くべきか。

この新書は2006年2月に出版されている。もう14年前になる。その後のドイツはどうなっているのか。丁度メルケル首相が誕生したころ筆をおいたことになる。

 

私は歴史は苦手である、哲学も経済も、音痴の部類である。だから、内容について書くのは諦める。ただ、面白く読んだ、これは著者の三島さんが巧者ということだろう。

 

勝手な個人的感想を。産業革命以降、世の中は変わってしまった。とくに資本主義が進むにつれて、お金も何も持たない個というのがとても儚いものになってきた。何らかの集団に所属しないでは、数のうちに入らないような・・・。

資本主義を飼いならすにはどうすればいいか。民主主義や全体主義共産主義など様々な模索がなされた。どれも失敗だった。

ただ、少しだけ期待が持てるのが、民主主義である。この民主主義というのは、厄介なことに、連帯し発言してゆかなければ、民意というのが形成できないということである。黙っていたのでは無視され食いものにされてしまうだけ。

 

交通・通信手段の発達していない時代には、多くの国に分かれていたのだが、いまはグローバルな時代に代わってきた。いままで中心的であったナショナルな考え方(お国自慢が他文化を拒絶するような)がだんだん足かせになってきている。

戦後の反省から、統一後「政治亡命者は誰でも受け入れる」ことにした。ところが、グローバル化が進むと、大量の難民が発生し、予想もしなかった規模で押し寄せてくることになった。憲法に明示したからには、これは全て受け入れる。

ここに、ナショナリズムが息を吹き返すことになった。ポピュリズムというか。

 

ただ、これは知識人の頭の中では、過渡的なことなのだろう。その後に、今までのドイツ人と他から入ってきた人の混ざり合ったところに、新しいドイツ人が生まれ、それは開かれた考え方をする・・・EU人に育ってゆく。

 

ただそれもこれも、対話し議論する中で、出てくることである。

 

この何倍も書かないと言いたいことがうまく伝えられそうにないのだが・・・その力はない。

最後に。これを書いていて、私はアメリカのドラマ(たぶんにオタク的な)『スーパーナチュラル』を思い出した。全15シーズンある長編ドラマ、悪魔や天使や神まで出てくる面白いドラマである。

登場人物それぞれが原理主義者じゃないかと思えるのだが、考えをぶつけ合い、力をぶつけ合い,潰しあい殺しあう。

そこから何が出てくるのか・・・出てくるものに価値があるのか、そういう行為・現象そのものに意味を見るべきなのか。

 

ま。仕方ないではないか。気づいたらこの場に居たのだから・・・。その場で必死に考えてゆくしかないではないか。

 

・・・・・・・

 

この間の勝利(将棋)はよっぽど嬉しかったようで、あの夜はなかなか眠れなかった。・・・正面から右から左から、壁のように・・・じわじわ攻めてくる。その圧迫感。どこに逃げ道を探したらいいのか・・・とりあえずこの銀に下がってもらいたいと思って角とりの歩を打った(銀が下がってその歩を取ってほしい)・・・ところが先方はどうしてもその銀を下がるわけにはいかないと考えていたようで、角が動いて、私の飛車が狙われることになってしまった。仕方ないので、角交換をする事にして、角を持つことになった。その時点では、私は、守りが弱くなるので角はうごかしたくなかった。

しかし、その動きの中で、私の歩は敵陣のいい位置に残り、角も手に入ったのであった。(Kさんとしてみれば、完全に包囲し、この飛車を動けなくすれば・・・と考えていたところだったのだろう)・・・などなどいろいろ思い出して、眠れないのであった。