地獄

去年、手術の後、集中治療室で、麻酔から目覚める時に、無間地獄に生まれたような苦しみを味わった、と書きました。

あの後も、折に触れて思い出すのですが・・・

 

麻酔から醒める時のあり様は、人さまざまな様です。私は、まだ全体が麻酔薬で眠っている中で、痛覚だけが目覚めた。痛みだけが目覚めたのである。逃げようとするが、脚もない、方向も分からない。

ただ、大声で叫び、手を振り回したかもしれない。しかし、その感覚はないので、実際にそうしたかどうかは分からないが、痛みから逃げようとしたのは覚えている。

(たぶん叫びを聞いて近づいてきた看護士さんを殴った可能性はある)

 

ボクは現代人だから(というより禅者だから)、無神論者(あるとかないとか論じない)である。だから、地獄をどこかにあるとは思っていない(あるとすればボクの心の中にある)。しかし、この体験は、まさに、本で読んだ「無間地獄」そのものだと思うのである。

多分、客観的には、目覚める時に、お腹に2センチほどメスを入れられたので、その痛みが感じられたということであろう。切り取られた内臓には痛覚はないはずだから。

しかし、主観的には、無間地獄の体験なのである。

切実なのは、主観的な体験の方である。客観というのは、説明に過ぎない。

そして、その説明というのは、時代によって変化する。痛みは似ていても、説明は大きく変わる可能性がある・・・

 

水木しげるさんは、お寺の本堂にかけてある「地獄図」をのんのん婆に見せられて、夜も眠れなくなり、いろんなモノを見るようになった。もっと過去の時代の人は、如何であったろうか。

手術の折に、麻酔を使うこともないような過去だと、痛みも、全然ちがう激しさであったろう。(私だって五感が目覚めていれば2センチの傷で大騒ぎはしなかったはず。比較できるものがない状態で、痛みの中に目を覚ましたのであった)

 

死ねば確実にこんなところに生まれると確信したに違いない。だって、肉体が、蛆虫に食われたり、火に焼かれたりする。それをいかんともすることが出来ない。どれだけの苦しみであろう。どれだけ続くのだろう・・・

 

気絶していると、痛みを感じない。しかし、感じないといっても、無いということではない。とするならば、死んだからと言って、痛みがないわけではないのではないか。火に焼かれるのは、想像を絶する苦しみであろうが、気絶してしまえば感じないで済む、しかし、火で焼かれるということは、痛覚はあるし、細胞の焼死もある。だだ、意識に上らないだけの事である。

・・・・細胞がバラバラになり、塵として四散し、また、植物に吸収され・・・どれほどの辛い旅をすることになるのだろうか・・・

 

ま。今の人はそういうことは思わないのだが・・・ついこの間まではそんなことを思っていたかもしれない。

今の人が思うことが、事実かどうかは分からない。しかし、確かに、気は楽だ。火葬されるときに、身が焼かれるのを感じていながら、実は声も出せない、知らせる手立てがない、という思いでいたら、火葬は受け入れがたいだろうから。

 

ま。いろいろ考えてしまう。

 

なにしろ、麻酔から醒める時に、無間地獄の苦しさだとは、想像もしたことがないのである・・・火葬がどういうモノなのか。一抹の不安があるではないか。