ニーチェ『道徳の系譜』

一応通読しました・・・というちょっと歯切れの悪い言い方をするわけは、確かに理解したという自信が持てないからです。よくわからないところが残っている。

 

すごく面白かった。ニーチェが自ら心理学者を名乗るのも頷けます。人の心理をかなり鋭く抉って、ヒトの気持ちを害するのが得意ですね。

 

私はニーチェの本はずいぶんいろいろ読んだつもりでいましたが、この『道徳の系譜』は、今回が初めてでした。・・・たぶんニーチェの、ニーチェらしいところがよく表れている、代表作の一つではないかと思います。

 

しかし、これだけ切り刻んで、さて、何が残るのだろうか。人は、なにをもって立ち上がるのか。

気になるところです。

 

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昨日。じぶんは、≪何かに囚われていたなあ≫と書きました。さて、何に囚われていたのだろうか、あらためて考えてみました。

 

お念仏が、唱える人は誰も救われる呪(まじない)なら、坐禅も、坐れば悟りそのものとなる、姿勢である。しかし、自分の体を使って坐禅しないなら、それは現れない。

それを言葉で表現することは、坐禅ではない。それは別のものである。

自分のこの、生身の体を使って坐禅の姿を現すことにしか、現成しないものがある。

こういう考えです。

 

これは、ある意味、意識を超えたものに重心を掛ける考え方です。

一回限りの、ぴちぴちと躍り跳ねるような、生きのいい命の営みに重心を掛ける。

意識を放下する。放ち忘れる。相手にしない。