思い出した

このまえ、40代の頃にニーチェを読むのを止めたことを書きました・・・理由はたぶん仏教書を集中的に読むようになったからであろうと。

どうも、そうではない。

それ以上先へ読み進むのが苦痛で、読むのを止めてしまった、ということのようです。

 

というのも、今回、ニーチェの論文のいくつかを途中で止めてしまったからである。

対象を切り刻む様子が、まるでクライムドラマというのか、ドラマの中で≪身も心も長い間支配されていたところから脱出するために相手を殺すのだが、いくら刺してもまだ生き返ってまた支配されてしまうような気がして、百数十か所を刺してもまだ不安で刺し続ける≫、というような話があるのだが、その場面を思い出した。

・・・キリスト教の解剖・告発をここまでやるのか・・・ほんとうに徹底的に!

 

吐き気は催さないけれど、その執着に辟易し、先へ読み進む意欲を失ってしまった。と同時に、30年前にも、似たような気持ちで読むのを止めてしまったにちがいない、と気づいたのである。

 

ツァラトゥストラ』は、このまま読み進めるつもりだが、『反キリスト者』『善悪の彼岸 第九章 高貴とは何か』などはもう読むのは止めようと思っている。(今回『道徳の系譜』は読んだのだが、以前はこれも読まなかった・・・。)

 

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今日は昼ごはんが2時間近く遅れて、午後3時ごろコーヒーを飲んだ。これがよく効いたらしく、寝床に入っても目がさえてしまい、将棋の事だけでなく、こんなことまで考えてしまったのである。これで眠れるかな??

 

追記;私は日本人だから分からないが、西洋キリスト教文明の中で育ったひとは、あらゆることにキリスト教が染みついており、使う言葉すら、キリスト教なしに使おうとすると、押し黙るしかなくなる。・・・それなしには息も出来ない、そこから、抜け出すためには、無理もないのかもしれない。・・・狂気に陥ったのは、病気のせいではないのかもしれないな。