善悪の彼岸

生身の生き物は、善悪の彼岸に生きる。

人間もまた、例外ではあり得ない。

 

しかし、頭のある人間は、善悪を考えざるを得ない。

 

こういうことが、忘れられてしまう、というか、言葉には、モノを切り刻む働きがあり、言葉を操っているうちに、言葉に操られてしまうのだろう。

 

ルターにしても、ゲーテにしても、だれもかれも、生身の人間は、道徳的には非難されるところを持っている。善悪の彼岸の生き物だから。

 

私たちも、あまりに監視の厳しい環境で育てられると、自己が分裂してしまう。これを統一するには、かなりのエネルギーが必要となる。

 

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頭が身体の役に立っているだけの時はいいのだが、やがて、作られた人工的環境に中で生きてゆかなければならない時に、頭が身体をコントロールする必要を感じ始める。

 

善悪が、基準になってくる。

うまく適応できればいいのだが・・・

 

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自分の一生の間、同じような世界に生きているのなら、だいたい似たような適応ができるのだが、激しく変動する世界の中では、適応が、さまざまな形をとる。

 

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不適応に悩むときの処方としては、「不思善悪」であろうか。

「夢」というのもある。匿名性のなかで不満をぶちまけるというのは、

多分二日酔いのような後悔を引き出すだけだろう。

まだ名前もない生身の生きものには確かに匿名性に近いところもあるのだが。

 

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ニーチェを読んでいて、刺激されていろいろな思いが浮かんでは消えてゆく。

 

 

 

 

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