『荘子』より  2

孔子は答えた。

「この世界には、大きな戒めごとが二つあります。その一つは運命であり、いま一つは義理であります。子が親を愛するのは運命であって、子供の心から取りさるわけにはいきませんし、臣下が君主に仕えるのは義理であって、どこに行っても君主は君主です。天地の間で、どこにもこの二つから離れられる場所はありません。これを大きな戒めごとというのです。そこで、あの自分の親のために仕える者では、どんな場合にもその親に仕える立場を守りつづけるというのが、最高の孝行ですし、あの自分の主君に仕える者では、どんな仕事にもその君に仕える立場を守りとおすというのが、最高の忠義です。そして、自分で自分の心を大切にしてそれに仕えてゆく者では、周囲の状況がどのように変わっても、それによって哀楽の感情を動かされることがなく、人の力ではどうしようもないことがらをよくわきまえて、その境涯に身を落ちつけ、運命のままに従っていくというのが、最高の徳です。人の臣として、あるいは子としては、もともとどうしても避けられない、のっぴきならないことがあるもので、実際の仕事にうちこんでわが身のことを忘れるものです。生きていることを楽しみとしたり、死ぬことを嫌がったりするほどの余裕が、どうしてありましょうか。さあ、あなたも人の臣下です、ためらいなく行かれるがよいでしょう。

私は、さらに人から聞いたことをお伝えしたい。およそ交際には、あいてが近くのばあいは、きっと誠心を直接に示しあって仲よくやっていけますが、あいてが遠方では、交際を確かなものとするのにはことばに頼らなければなりません。そして、ことばにはそれを取り次ぐ人が必要です。ところで、交際の双方がともに喜んでいたり、ともに怒っていたりするときのことばを取りつぐのは、非常に難しいことです。つまり双方が喜んでいるばあいは、必ずあいてをほめすぎたことばが多くなり、双方が怒っているばあいは、必ずあいてを悪く言いすぎたことばが多くなるわけで、すべて度を過ぎたことばは事実から離れ、事実から離れたのではその信用も薄く、信用が薄いのではそのことばをとりついだ者が罪を受けることになるからです。そこで、格言にも『そのありのままを取りついで、誇張したことばを取りつがなければ、まずは安全だ』といわれています。それに、技をきそって勝負をするものは、はじめは形を見せあいますが、終わりにはきっと陰謀をめぐらすようになり、極端までいくととんでもない技がとびだすことにもなります。礼の作法に従って酒を飲むものは、はじめは慎んでいますが、終わりにはきっと乱れることになり、極端までいくととんでもない快楽をむさぼることにもなります。すべてもの事はそうしたものです。上品にはじまったことでも、終わりには必ず下品になります。そのしはじめがいいかげんでは、その終わりごろには必ずとほうもないことになるものです。使者としても、ここのところに気をつけるのが大切でしょう。

 

いったいことばというものは風や波のようなものです。行為というものもうまくいったりいかなかったりという得失をともなうものです。風や波はゆれ動いて変わりやすいものですし、得失のあることは危険におちいりやすいことです。だから、人の怒りをまねくのは、何も飾りたてた見えすいたきげんとりのことばに限ったことではありません。獣が追いつめられて死にそうになったときは、鳴き声にかまうこともできずに、息づかいもあらくなって、そこでみなすさまじい心を起こすものですが、人も同じことであまりにもきびしくしめつけられると、必ず善くない心で対応するようになって、しかもそのことを自分では自覚しないものです。善くない心で対応しながらそれを自覚していないということであれば、とどのつまり、何をしでかすかわかったものではありません。あなたもつきつめた気持ちは捨てた方がよいでしょう。そこで格言にも『君主の言いつけを変えてはならぬ。成功しようとむりにつとめてはならぬ』とあります。度を過ごすのは余分なつけたしですし、言いつけを変更したり成功しようとつとめたりするのは事を危うくするものです。立派な事ができあがるのには長い期間がかかるものですが、悪いことは改めるひまもないほど次々とはやくしあがります。慎重にしないでおれましょうか。そもそも物ごとのうつりゆきにまかせてわが心をのびのびと自由に解き放し、人の力ではどうしようもないのっぴきならないものに身をゆだねて、中正の立場を養ってのが、最上のことです。何をあれこれと細工をして報告する必要がありましょう。主君の言いつけをそのままに伝えるのが第一の事です。ここがその難しいところです。」

 

荘子 人間世編第四 二 (岩波文庫 第一分冊)現代語訳

 

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本当に親切に教えてくれています。これで心が決まらなければ、それは力量不足ということになりましょうか・・・それにしても、実際の場面で、心が坐るというのは、至難の事と思います。日々の精進あるのみ、ということでしょう。

荘子の”遊ぶ”ということの、もっともシビアな一面という気がします。中国の戦国時代がどんなに厳しい時代だったかということも考えさせられます。

この項、おわり