普勧  普く勧める

この言葉が、私を最終的に落ち着かせてくれたような気がする。

道元禅師の『普勧坐禅

特別な人のためではない。誰にでも、すべてのひとに、勧める。

最初はこの言葉を握り、やがてはこの言葉に導かれるようにして・・・

 

私は、親鸞さんとは違うけれど、修行すればするほど、落ち着かなくなっていった。

ピラミッドの頂点に立つことが、最終的な落ち着きどころなのか???

違うのではないか・・・少なくともボクはそういうところでは落ち着けない。

学校の先生にも向いていなかった・・・教えるというのがどうにも苦手で・・・

 

修行しているといろいろな迷いが出てくるのだが・・・

自分が大きくなって全体を覆ってしまう、というのはどうも頂けない。

皆より公案修行が進んでいる先輩は、禅天魔そのもののように見える・・・

 

ボクは、ますます「目立ちたくない」自分に出会うのであった。目立ちたくないのだけれども、ヒトの後をついてゆくのは嫌だなあ・・・

世間には、必ずリーダーシップを取りたがる人が居て、集団に所属すれば、自然にその後を歩かざるを得なくなる。かといって、リーダーのようなものにはなりたくない。

これは小学校の学級委員制度の悪弊だろうか・・・懲りてしまった

 

修行っていったい何なのだろうか。どこに向かっているのだろうか。

オレは一体何がしたいのか。何になりたいのか。

 

オレは何にもなりたくない。ただ、今のオレには、何かが足りないか何かが過剰か、とにかく落ち着かないのである・・・・

 

歴史上の先輩諸氏の誓願とか、いろいろ聞かされて、真似をしようとするのだが、

すぐに挫折してしまう。所詮は付け焼刃ということなのだろう。真似も一生続ければ本物だというが・・・オレは努力は嫌いだなあ

 

いい気になったり、どん底に落ちたり、フラフラしているうちに6年が過ぎた。

 

そして、何かの後を追っかけているうちは落ち着くはずはないよ。自分に落ち着くことだよ。坐禅を本尊さまとして歩くことだよ。

 

・・・それからも、坐禅とは何だろうか、とか優れた禅定は・・・とかあれこれ思っては迷ったが、

 

とにかく決められた時間、座布団の上でじっとしていること。余計なことは考えないことだ。”考え・思い”に重心を掛けないこと。

 

公案修行の落ちこぼれだから、劣等感コンプレックスからなかなか脱却できなかったな

 

あれから・・・35年か。これは長いのだろうか、短いのだろうか。(修行を始めたところから見れば、山また山の彼方と見えたろうが、いま振り返れば瞬きする間の事かと)

・・・絶えず覗いてきた自分の鏡は、坐禅かな。鏡には自分の姿が映っているだけとも言える。

 

姿勢は悪く、すこし傾いている。顔はしわくちゃ。