【かれは、秘密の多い、隠れた神だった。まことに、一人の息子を生ませるときさえ、間道をとおった神である。かれへの信仰の入り口にあるものは姦通である。】
『ツアラトウストラ』(中公文庫)p582
同じことを言い表すのでも、こういうことを言われるとギョッとする。
同じことを言い表すといったが、本当はそうではない。
体験的事実とその解釈の違い。解釈はほぼ無限に存在しうる。
同じどころではない。全然違うところ・方向から見ている。
《愛の神》の入り口に、《姦通》という先例が横たわっているというのは、なかなか想像力を刺激する。
『ツアラトウストラ』を読んでいると、ダンテ『神曲』を思い出す。誰もがそうなのかどうかは分からないが・・・。言葉を操る人に共通のなにかがかんじられるのだろうか。創作意欲のようなものが刺激されると言ってもいいのかもしれない。
ニーチェの作品の中では、私は『ツアラトウストラ』を一番読んでいる・・・一番読みやすいからかもしれない。舞台俳優の顔のようなものが浮かんできて・・・。
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俳優というのは、言葉から人物像を創り出し、それを演じるのかもしれない。
言葉の前に、その言葉が育った土壌のようなもの、体験が、豊富でないと、演じるというのもやがて重いものになって行ってしまうのかも。
普通は、演技を積み重ねて、軽くなってゆくものと想像するのだが・・・
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少しづつ蝉の声が大きくなってきている・・・