『晩夏』読みました

読後、といわず、読んでいる最中から、一杯??? クエスチョンマークが躍っています。

・・・

・・・宗教書のようなかんじです。確かに、一種の宗教書なのではないかと。

 

下巻の最後に、訳した方の解説がありますが、とても参考になりました。

 

忘れられていたのが、ニーチェが有名になるにしたがって、再発見され・・・さかんに研究された、と。

 

本当に退屈なような、なにか惹かれるような・・・この作者のこのこだわりは、何なのだろうか・・・

 

そうそう。晩夏とは、日本語として私は聞きなれないので意味不明であったのだが、どうやら、命の輝く夏をすぎて秋になり、その秋の季節の、夏のぶり返しのような命の輝く日々の事らしい。とするならば、当然、主人公は、語り手ではなく、バラの家の主人です。

 

語り手にも(背後にあって貫いているものが)よくわからないまま、その言葉と行動が示される形で、淡々と描かれている。語り手の成長によって見えてくる世界が描かれているともいえる。

なぜ、こういう行動をとるのだろうか。なぜ、語り手は歓待されるのだろうか。など、何故?と思うことが多いのだが、それは説明されることなく、物語は淡々と進んでいくように見える。最後に近いところで、いろいろ分かるのだが、それでも分からないままの事が極めて多い。

これが、シュティフターの技法というか文体なのだろう。自然描写の時には、それはとても分かりやすく魅力的だ。しかし、人間については、私たちは、自分の体験を通して推測して補うことが強いられる。・・・あるいは、そういうことは重要ではない、重要なことはすべて書いた、ということなのか。

 

ま。読むといっても、本屋にはない。注文しても手に入らない。図書館の書庫に眠っている。そういう本だろうと思うのだが・・・『坐禅』(これも似たような運命かも)に命を預けてきた私には、それなりに面白かった。

 

シュティフターには、何もかも分かっていて、こういう退屈な本を書いた、書かずにはいられなかった、に違いないのである。

H先生の風貌を思い出しています。