『ヴィティコー』 2

第二巻の中ほどまで読み進みました。全体のちょうど中間点ぐらいのところです。いくつかの事が分かってきました。

 

神様の力が弱まって、人間が中心になってくると、正義とか善とかよりも、欲望のほうが価値が出てくる。欲望実現の手段も当然ながら価値があるものになってくる。

・・・神様に力があれば、人間は正義や善などと湧き起こる欲望の葛藤に苦しむことになる。葛藤そのものに価値があるというより、葛藤を克服し、善や正義の実現のために歩き出し、具体的な場でその実現に努力することにこそ価値がある。

しかし、正義や善が心の生み出した妄想に過ぎないということになれば、そういう余分なものを考えないでよくなる。ひたすら欲望を満たすことに邁進することになり、そこに生まれる苦しみは、競争における勝った負けたの、あるいは騙しあいの苦しみのような、単純なものが多くなるのかもしれない。

 

むき出しの欲望が大手を振って歴史の大通りを闊歩し始めたのが、19世紀なのだろう。

『ヴィティコー』は、12世紀のチェコオーストリアの国境地帯の森の中が主舞台だが、テーマは「何のために生きるか」である。(ようにみえる)

もう19世紀以降は、むきだしの欲望の時代で、そこに物語を展開しても夢物語に過ぎないということが、『晩夏』を書いてハッキリしたのかもしれない。

 

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今日は暑かったですね。13時ごろ、いつものように散歩をしたのですが、途中でかなり濃い味をつけたドリンクに何度も口をつけました。(いつものところでグランドゴルフを楽しんでいる人たちもいました)

川の中で水と戯れているコイがちょっと羨ましかった。