『ヴィティコー』  3

第三巻の三分の一ぐらい。主人公が領主となり、城を築き妻を迎える、ことになった。

 

これは、19世紀のカオス状態にNOといった作者が、カオスを回避するようにして生まれたキリスト教的社会(秩序ある社会)を 未来に(も)見ていたということなのだろうか

 

ボクには、こういう社会は、時の中で、内部から腐ってくる、ように見えるのだが・・・それを防ぐには、強権の発動しかないだろう・・・

人間は天使ではないから・・・天使の真似はいつまでも続けられない・・・

 

原理主義的思考には、どうも信用できないところがある・・・と。

 

・・・ま、ともかく最後まで読もう。

 

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暑い日が続く。昨夜は、夜中に目を覚まし(暑かったせいかそれとも地震のせいか、今朝ラジオ体操の時に地震があったことを教えられた)、エアコンをつけた。ほんの短時間つけて、直ぐに切るつもりでいたのだが、そのまま朝まで寝込んでしまった。

鼻がぐずぐずする程度ですんだが、危ない危ない。

 

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『ヴィティコー』は、ファンタジーなのだろうか。ディズニー映画を見ているような気になるのは確かだ。当時映画は知られていなかったのだが、作者が画家でもあるので、きわめて視覚的な描写が多いからだろう。

作者は歴史を書いているつもりでいたようだが、それは心理描写などを一切排除するという意味なのではないか。

目に見、言葉で示せるものにのみ、価値を見ている。

それが、神の意志の表れだからだろうか(神が想定されているだけで歴史ではないと考えるのは、われわれずっと後の、ダーウィン以後の人間だからだろうか)

 

エゴを認めないなら、エゴを悪と見るなら、世界はある意味単純でもあろう・・・

 

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ほんの少し動いただけで汗が滲む、これは、普段運動不足だからだろうか

誰もそうなんだろうか