思うままに

今回に限らないのだが、その作品について考えると同時に、いろんなことを漠然と思う。まあ、当たり前の事だろう

ただ、だんだん、違ってきているかな、と感じることもある。

たとえは、昨日までは知っていると思ったことが、実は知らなかったというか、浅かったというか、まだ、井戸の中をよく覗いていなかったのではないか、というような、そういう感じがし始めている。

もう少し具体的に書くと、もうあまり本も読めなくなるかもしれないな、そうなったら、何をすることになるのだろうか、と。

本を読めなくなるということでは、白内障が進んで読みにくくなる、というようなことを考えていたのだが、そうではない。書かれている内容に、あまり興味が持てなくなる、かもしれない、ということだ。

無理にでも、この世に関心を縛り付ける工夫をしないと、どうでもいいような、寂しい感じが、し始めたというか・・・

虚無が浸潤してくる、というのは、こんな感じかもしれないな、と。

 

若い人たちの多くが、こんどの新型コロナ騒ぎで、鬱に近いところに追い込まれている、という話を聞く。カラ元気を出している人も多いだろうが、やっと大学生活を始めたと思ったら、学校に行かないで自宅でインターネットで学習、というのでは・・・パソコンとスマホで外界と繋がるだけのような、世界が縮小したような憂鬱な日々であろう。

 

老人でも、カラ元気を出して、死ぬまで現役と突っ張る人も居るだろうが、淡々と年相応のあれこれを感受しようとすると、突っぱねない限り、虚無の浸潤というのは避けがたいのではないか。

神様なり何なりを握り、寄りかかることが出来れば、幸いかも知れないが・・・現代人には、大半の人にはそれは出来ないだろうから、たった一人で立つ、ということになる。

じたばたしないで、そこでじっとしている、というのは、今までの、社会の中で支えあってお互いが互恵関係の中で生きてきた、というのとは、だいぶ様相が違う・・・

 

禅坊主の語録の中には、そういうところで漏らされる感想が結構あると思うのだが、というのも、彼らは彼らではない、原則ひとりだから。そういうのを、読んできても、それは、自分の境涯が違うところでは、つい読み違えてしまう・・・

 

いま、「つぶやき」が流行る時代だが、呟く傍から、虚空に消えてしまうような、そういうつぶやきは、禅坊主の専売のようにして、かろうじて留められている。

そういう見方で、シュティフターの作品を眺めてみると・・・というより、そういう見方しか出来なくなってくると、それは相当強い色眼鏡を掛けることと同じだろう。

 

ま。そんな、こんな、ことを思うのである。