やはり、予感していた通り、ほとんど理解できない。
ときどき少しだけ分かったような文句に出会う。
【ルソーは、社会契約が規定し規制するように要求されている数多くの関係のうちで、政治的関係だけしか見ていない。いいかえれば、かれは契約の根本的な点を抹殺して二義的な点のみを研究している。ルソーは、社会契約の本質的で不可欠な条件のなかに、契約者の絶対的自由、その直接的、個人的参加、事情に通じた上での署名、自由と福祉の増大を見出すべきであったのに、そのどれをも理解も尊重もしていない。】p59
確かに、契約者の絶対的自由など考えても居ないような気がしますね
【革命の原理は、今なおわれわれが知るように、自由である。・・・・
諸権力の集積を手段とする、人間による人間の支配をなくすこと。
資本の集積を手段とする、人間による人間の搾取をなくすこと。
自由!これが社会哲学の最初の言葉であり、最後の言葉なのだ。】p141
こういう考え方を突き詰めてゆくと、国家という形態そのものが胡散臭いものと見えてくる・・・
同時並行的に『大衆の反逆』岩波文庫 も読み進めているのだが、これも、易しいようで(言葉がこなれていて)、易しくない(内容、そして饒舌!)。
平等と自由は、相反するところもあるように思うのだが、平等の方向へ進んできた社会が、どういう様相を呈しているか・・・100年前の論考だが。
平等、という時、「法のもとの」ということで、国家がついて回るのだろうか。
自由、という時、生得的なもので、国家は必ずしも必要ではないような・・・お釈迦さまの教団が、必要に応じて、納得づくて「法」を持ったように、内発的なもので十分なような気もします。
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雁字搦めにされて、束縛され搾取される。言葉も体制側のもので、弱い者の弁護の役にはたたない。そういうところで、反逆は革命という形で起こるしかない・・・
『大衆の反逆』に描かれているのは、現代と同じような、豊かさの中で、お坊ちゃんお嬢ちゃんとして育った、子供のまま大きくなってしまったような、伝統(貧困・因習・過重労働・・・)とは切れている人々の登場の物語のようである。
トクヴィルがアメリカで見たものから予測していた世界の、一つの断面のような・・
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将棋の棋譜を並べて見る時、ボクなどは超初心者だから、その時々の広がりはよく分からない。しかし、解説を聞きながら同時進行の将棋を見ていると、その時々の、”よみ”がどういうモノか、伝わってくる。
ま。歴史書も、教科書のような、済んでしまった過去を上手い具合に書いてある本を読むと同時に、その時々の節目のポイントの、現場でのルポのようなものを読むことはどうしても必要な気がする。
ただ、読まなくてはならぬものが多すぎて(そして、知識が乏しくて分からないものが多すぎる)・・・体力との兼ね合いのような感じですね。
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掛け布団を出したり、毛布を出したり・・・今の時期、なかなか体調管理が難しい。
あれこれ考えます。