仏教書を読んでいると

昔のことをいろいろ思い出す。とくに阿含経典を読んで思いだすのは、

「オレってほんとうに頭悪いなあ」と。

 

人は、基礎教養を身につけて出発するものではないので、途中で何度も立ち止まり

後戻りし、別の方向に目を向けたり、あるいは、遠回りしていることを認めたくなくて片意地を張ったり・・・

 

特に今の日本のように宗教を無視している国のばあい、勘違いの連続と言っていいかも。ボクのような頭の悪い者はとくに。

一応本を読んでも、本の読み方も知らないので、「自分の見たいもの」だけを見ているということになかなか気づかない、というか、見たいものだけを探している、と言った方がいいかもしれない。たぶん、それでいい時も多いのだ。でも、

それでは本を読んだことにならないので、大事なことを素通りしてしまう。

とくに宗教(仏教)のような場合、最初のボタンの掛け違いに気づくことが大切だから。

・・・毎日お唱えしていても、その内容に思いをいたしていなかったということにはなかなか気づかない。通り一遍の理解もあるかどうか。

 

刑事もののドラマを見ていると「現場100回」とか「現場に戻る」とか言うことが多いのだが、確かに人生においても、見落としというか、見ていて見ていない、ことが多い。気づいた時には遅かったという・・・

 

でも・・・まだ生きているんだ。遅すぎるということはない。

 

何百回何千回そう思ってきたことか。それを忘れてきたことか。

 

お釈迦さまの亡くなった頃(2月)にだいたい一週間ぐらい「遺教経ゆいきょうきょう」というお経(お釈迦さまの遺言のような内容)を毎日お唱えする。その中に「はらだいもくしゃ」を大事にしなさい、とある。

「はらだいもくしゃ」とはなんだいな。

これは、日本語では「べつべつ解脱」と訳されている。

どういうことかな

その場その場で解脱する、つまりその時やるべきことをやって、尾を引かない。

もうすこし言ってくださいな

くよくよしても仕方ない。もう間に合わない。次の時が来ているのだから、次の事を全力でやるだけ。

全然反省しないのかね

反省しないわけではないが、それに囚われていると、つぎつぎにへまを連発することになる。今一番大事なことに、気持ちを変えて、向き合う。

 

ま。こういう教えから言うと、いま気づいたなら、いまやろう、ということになる。

何十年と気づかなかったことを、今気づくということは、しばしばだ。

 

・・・・・・・・

 

今回も、書きたいことはあったのだが、書いたことはそこから大きく逸れてしまったような気がしている。