つづき かな

御詠歌のおばさんたちとの付き合いは長い。次々と年を取り、鬼籍に入り・・・いまは

最高齢が90ぐらいだろうか・・・私が住職になってから、たぶん晋山(住職になる)式の時、行列を先導する御詠歌の人たちを募集した。その時から参加した人がまだ残っているのである。わたしが寺を出たあとに加わった、新しい人も2名。もちろん檀家だから顔見知りである。

 

久しぶりに聞いたが、鳴らし物の音がよくコントロールされていて、練習している様子が伝わってきた。このコロナ騒ぎの時期に、そんなに練習も出来ないだろうと思うが。

 

・・・あの頃は、お寺の事は全く分からないままに(分からないがゆえに、と書くべきか)御詠歌の集まりを潰してしまおうか、と考えていたのであった。

坐禅のような、ほとんどの人が見向きもしないことを中心と考え、枝葉を剪定したいと思っていたのであった。まあ、考えていただけで、実際に行動しないでよかった。

 

インドで仏教が滅びた原因はいろいろあるのだろうが、たぶんお葬式に関わらない、御祈祷もしない。そういう、信徒集団の願いに応えることが薄かった、ということもあるかもしれない。

 

在家の「坐禅道場」が長い間続いて、そこで育った人たちが鬼籍に入る時に、道場主に「お葬式をしてほしい」と頼むということがあるらしい。

・・・たぶん、在家の集団である「創価学会」にも、そういう問題があって、「学会葬」というものが始まったのであろう。

 

インドでは、どうも最後まで、それに関わらなかったようなのである。権力者と大商人たちの布施を受けていたのかもしれない。しかし、有為転変は世の習いだから、それは当てには出来ない時もくる・・・。

 

日本でも、戦前までは、お寺は、大旦那衆が中心になってお寺を盛り立ててきていた。それが、農地解放などで没落して、旦那衆がお寺を守り出来なくなった。そのとき、護持会組織が結成されて、すべての檀家が護持会費を修めて寺を維持してゆく体制が出来た。

インドでも、権力者の交代の時に、おなじような問題が起こったはずなのだが・・・。

 

御詠歌を聞いて、あらぬことを考えました。

 

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肩の痛みはおおかた消えました。が、膝はまだのようで、立ったり座ったりが思うに任せない。歯もそうとうなダメージを受けたようで、歯医者に行くかどうか迷っています。まあ、何はともあれ、坐りとおせたことは喜びです。

 

本を読む元気はまだ出ない。