『アメリカの鏡・日本』 つづきなど

読んでいて、トクヴィルを思い出した。まったく関係なさそうなのだが。

「何処へ行こうとしているのか」

 

フランスの現状を見、アメリカを見、歴史は平等の拡大の方向で動いていると見極めたトクヴィルであったが、これからどういうことが起こってくるのか、深く憂慮していた。

ミアーズ女史も、この延長上には、恐ろしいものが待っているのではないかと、不安を感じながらいるように見える。(間もなく米ソ冷戦時代に入る)

 

アメリカと日本は、合わせ鏡のように似ている。」

 

・・・たぶん。産業革命以降、ヒトは幸せを求めるのではなく、力を求めるようになってしまった。力に取りつかれたものが、御旗を掲げながら争っている。

・・・・敵と味方に分かれているが、鏡に映してみれば、同じ顔をしている。

 

自分の全く同じ顔をしている敵と戦っていることに気づくべきではないのか

自分たちは本当はどうしたいのか。

 

こういうことに気づかないと、

(また新たな敵を発見することになり)同じことの拡大再生産ではないのか

延々と阿修羅の道を歩むのか

 

まだ、途中(全十章中三章の3を読んでいる)だが、ふとこういうことを感じた。

勿論著者はこんなことを考えてはいないだろう。これは、触発されて生まれた私の妄想である。

 

・・・・・・・

 

お茶を飲んでいて、昔むかし大昔、まだ20代半ばの頃のことを思い出した。

ある家に出入りしていた(ときどき夕飯をご馳走になっていた)のだが、そこの親父さんは「玉露」を趣味(道楽)にしていて

行くと必ず「玉露」を入れてくれた。私はろくに味も分からず頂いていたが、値段を聞くとビックリするようなものであった。

そのおじさんは私に将棋を教えたくて、機会があると駒を持ち出す。・・・私は、負けるのが嫌いなので、一度指せば必ず「ハマる」ような気がして、断っていた。あまりしつこくされて、断れなくなって、夕ご飯が食べられなくなるのは惜しかった(なかなかの夕ご飯だった)が、行かなくなった。

 

いま、一番安いお茶を飲んでいて、ふと思い出した。あれはどれほど美味しいお茶だったのだろうと。まあ、私に玉露とは、豚に真珠というところだったなあ、と。

 

・・・・・・・

 

散歩中にツバメを多数見かけました。今年は早いです。

どうやらイワツバメのようですが。