第二シーズン
ドラマの最初の、配役のところで、”セミ”がでてくる。
15回かそのころに、敵役が、「セミをカマキリが狙い、それをスズメが狙っている。みんな自分をスズメだと思っているが・・・」と独り言を言うところがある。
まあ、彼から見れば、長林王府のひと(とくに世子)は、自分をスズメだと思っているセミなのであろう。
(全部見た感想では、次子;主役こそが、標的ではない;駒なのだが、結果的に、セミであったというように思える。)
こういう見方では、固定的にそうだということは出来ないので、きわめて相対的であろう。狙っているつもりで、実は狙われている・・・
これは確か『荘子』のなかにある寓話の一つである。
そういう目で見ると、第一シーズンでは、配役の所で、サナギが蝶になって飛び去るさまが描かれていた。あれも、『荘子』を受けているのだろう。
有名な、夢に胡蝶となる、話。謀士蘇哲は、林家の長男が(死んで)生まれ変わった姿である。あるいは、変化した姿。
『荘子』は、きわめて相対的な、相関的な、見方をする。重々無尽な写し合い、とでもいうのだろうか。
このドラマの作り手も、そういう描き方をしているのかもしれない。
・・・アメリカドラマになれている目からは、ゾンビ映画と見れないことも無いかも。
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サクラは満開を過ぎ、散り始めている。あっという間だ。