花まつり。誕生仏に甘茶をかけて、ちょっと坐った。
独りなので、作務衣で坐る。いろいろ思いが浮かんでは消えてゆくのだが、今回は、最近中国の歴史ファンタジーを見たこともあり、関連したことを思った。
お坊さんは今でも、中国の1000年前とあまり変わらない衣服を着ている。・・・食事は、朝はおかゆ、昼はしっかり食べて、夕方は残り物をオジヤ(雑炊)にする。これは今でこそお坊さんだけだが、昔は、そういう人が多かったのかもしれない。なにしろ電灯はなく、ロウソクなども貴重品だったろうから、夜ゆっくり食事が作れたとは思えない。(ほとんどが農民であった)
お坊さんは変わったことをしていたのではなく、みなと似たような生活をしていたと思う。ただ、社会は変化してきたが、お坊さんの生活はあまり変わらなかった。
急激に変化してきたのはつい最近のことで・・・、65年ほど前、ボクが小学校へ行き始めたころは、まだ、すこし山の上の友だちの家に電気が来ていないということがあった。たしかボクの住んでいる地区に電気が灯ったのもその2年ほど前のことであった。ボクが4,5歳ぐらいの時。
・・・今はどうだろうか。お坊さんの生活も大きく変わってしまったのかな
そんなことを思うともなく思っていたら、『荘子』のなかの寓話を思い出した。
機械を使い始めると、機事(あれこれ工夫することか)あり、機事あれば、機心(工夫するこころ、あれこれたくらむ心)が起こってくる、云々
まあ。これは世間では貴重なことなのだが、修行の妨げである。だから、1000年たっても同じような生活をしている・・・
でも、この話には続きがあって、機械を使わないというのは、一を知って二を知らないものと言うべきだ、と批判されている。世間から取り残されることが修行ではないだろう、と。確かにそういわれればそうだが・・・
お釈迦さんのお弟子たちは、後の世に、小乗の徒(自分のことしか考えていない)と貶められている。それと似ているかもしれない。
・・・・・・・
結論を出したいのではない。何かを主張したいのでもない。ただ坐っていて湧き出した思いをちょっと書いただけである。
(ボクとしては、機心を否定する時節もあっていいと思っている。)