『司馬遼太郎と藤沢周平』

の中にこんな言葉がある。

 

【そういういくつもの可能性の中で、そこにいた当事者はどの道を進むかで悩んだわけです。「オレはどうしようかな、おまえはそっちへ行くのか、オレはこっちへ行くよ」という選択の苦悩と快感こそが歴史小説の醍醐味でしょう。現実にはならなかったいくつかの可能性とは、ほとんどが民衆レベルの問題です。

そうした可能性の問題を無視して、現実化した歴史の流れだけを追うと、どうしても権力者の歴史の追随になってしまう。

歴史的可能性がどうして一つの現実になったか、それを描こうとするなら、民衆レベルの迷い、悩み、さまざまな人生の結び目に注目しなくてはならない。また可能性のままで終わってしまった無数の人生がある。それにも目を配って、現実となったものを相対化してみせること、それこそが歴史小説の役目なのではないか。

ビルの屋上から眺めているのではそれは絶対に見えない。むしろ下から靴磨きの少年が見上げるようにして路上を見渡すのでなければね。】p182

 

佐高氏と色川大吉氏の対談(1997)の時の、色川氏の言葉である。

 

ビルの屋上から眺めるようにして・・・というので司馬遼太郎を言い、靴磨きの少年が見上げる・・・というので藤沢周平を言っていると受け取っていいだろう。

 

ちなみに、将棋のKさんは今「池波正太郎」が面白いと言っていた。この日も一冊見つけて持ち帰っている。・・・知り合いには司馬遼太郎ファンがいるのだが、自分には上から目線が面白くないと。

 

まあ。人の好みはいろいろだし、それが面白いところだろうから・・・天国の魅力の乏しいのはその単調さのような気がする・・・。

まあ、人間というのはしょうがないねえ。