『雲奔る』藤沢周平(中公文庫)

幕末の志士、雲井龍雄の伝記である。

 

半分ほど読んだところである。昨夜は、読んでいる途中で本を閉じ、寝たのだが、つづきが気になってあれこれ思っているうちに、目がさえてしまった。ボクは眠れないことなどほとんどないのだが・・・。

仕方なしに、寝床で続きを読むことになってしまった。

11時ごろ、さすがに眠くなり・・・

 

雲井龍雄は「遅れてきた志士」という感じである。現実に揉まれる経験に乏しく、正論から(儒教陽明学からというべきか)踏み出すことが出来ない。外敵と直接対決していないからだろう。大義名分から出られない、出てしまうと存在の意味を喪失してしまうということに留まっている。・・・

薩摩のあり様を許すことが出来ない。それで、錦の御旗をかかげて進軍する薩摩を敵として・・・刺客に狙われる・・・

 

乱反射。時代の変わり目は、今までの自明であったものが見失われ、新しいものがまだ見えないから、いろんな方向に模索される。自信ある者は走り出してしまう。だが、どんな人も、いま立っているところからしか歩き出せない。

 

三国志曹操ではないが、天子を抱き込んだ方が、主流ということであろうか

 

藤沢周平には、幕末の志士ではもう一人、清川八郎の伝記があるのだが、こちらは、丁度良い時期に活動したような気がする・・・が、他の人とは歩調が合わないような・・・。

これは30年近く前に読んだことがある。

・・・当時は、海音寺潮五郎さんの幕末物も面白く読んだ。

 

ボクは棺桶に片足を突っ込んでいる身なので、今の関心は、歴史の流れでも、正論でもない。人である。とうとうと流れる濁流の中に、身を躍らせてゆく、人。

この濁流というのは、たぶん、自分の命と共鳴している。だから、そのあり様は、人さまざまに違いない、善悪長短はあまり関係ない。そう思う。

 

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ここ数日の間に、2匹、二羽というべきか

小鳥の死骸を見た。一羽は、スズメの死骸。おそらくは飛び立ったばかりの経験の乏しいスズメが、車に接触してしまったのであろう。

もう一羽は、まだ毛の生えそろっていない雛の死骸。昨日はかなり強い風が吹いていたから、巣から転げ落ちたものでもあろうか

 

・・・・毎年、今の時期にはこういうことがある。命で溢れかえっている、だから勿論死も。生命の切り口が、そう見えるということだろうか