陶淵明

二人の男がいる。一緒に住んでいたが、彼らのやることなすこと正反対。

一人はいつも酔っぱらっている。一人は年中覚めている。

酔っ払いと素面と、お互い笑っているが、お互いの言っていることは分かりあえない。

(素面の)くどくどと生真面目にいうことのなんというばからしさ。

(酔っ払いの)傲然と威張っている方が賢いようだ。

酔っ払いのほうに一言言おう。

日が暮れたら、燭を灯してさらにお遊びなさい。

 

これは陶淵明の飲酒二十首のなかの、第十四。

 

ちょっと、陶淵明を読みたくなってパラパラめくっていて、たまたま写している。

 

この二人とは、二人とも自分であろう。ながい間の葛藤の末に、酔っぱらう方に軍配を上げた。ということだろう。田舎に帰ろうと決心したのと同時かも知れない。

 

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『中国文学における孤独感』読み終えた。

私の途中での感想は大分的外れであったが・・・。それは当然と言えば当然だろう。

久しぶりに、陶淵明を読みたくなった。というのも、陶淵明に”孤独感”ということを感じたことがなかったので、ちょっと確かめたかったのである。

 

孤独感というモノに、わたしは、もう少し違った感じを抱いていた。・・・

儚さとか、無常とか、寂しさとか・・・という言葉を私は使い、孤独感という言葉にはあまり縁がなかったようだ。・・・私が日本人なので、対句をなすような発想を持たない、ということかもしれません。

 

巧く説明が出来そうにないので、止めるが。

 

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今日は夏日になりそうだ。散歩は半そでで、ペットボトルの飲み物持参か。