少し時間が掛かったが

『中国人の論理学』終わりました。

 

あの頃(50年前)「ことば」に興味を持っていて、あれこれ読んでいた。英語で苦労した割には身につかなかったので、外から批判的な目で見ようとしていたのであろうか。

 

日本語は、漢字かな交じり文で表記するが、中国語は漢字だけで表記する。

漢字かな交じり文でも言いたいことは全て表記できるとは限らないことを思う時、漢字だけでは更にそれは難しそうである。しゃべっている言葉と、記録される言葉との乖離ははなはだしいだろう。それが、ものを考えるときに、どういう影響を与えているのだろうか。

英語とかフランス語とかは、専門用語も、表記は簡単だが、おそらくは、特殊な専門家にしか分からないだろう。それに比べれば、日本語や中国語は、専門用語もそれなりのイメージは誰もが持つことが出来そうである・・・

日本語は、源氏物語でも読むのに相当苦労する。たしか英語の、シェイクスピアでも、すごく読みにくかった。それなのに、それよりもはるかに古い時代の「論語」などでも、書体を現代風にすれば、読める・・・

 

そういうことが、その国の人たちにどういう影響を与えているか、あるいは、どういう考えの人たちがどういう言葉を創り出してきたのか、などということに少し興味を持ち始めていた時に読んだような気がする。

 

まだ、いろんなことに興味を持ち始めたばかりで、どこに導かれるのかも分からない時であった。まあ、人生は遊びのようなものだと、おぼろげに考えていたところもあるので、モノにしようという考えは何に対しても希薄であった。(実際何一つモノにはならなかった。)

 

あの頃のことを思い出せただけでも、いいとしようか。

 

例によって、本の内容の紹介はしない。ネットではそれはすぐに検索できるから。

この本がきっかけで、加地伸行さんの本はその後も何冊か読んだ。