『読書の学』(ちくま学芸文庫)

吉川先生の本である。解説に、大学を退官されてから4年後、『ちくま』に連載されたものを後でまとめたものとある。

 

比較的易しい例を使って、自分の学問的方法を示した本である。吉川先生の本を読むと、どういう方法なのかはだいたい分かるのだが、それを正面から取り上げて示している。

比較的長いが写してみる。この引用部分は、この本でここまでに書かれたことのある意味でのまとめのようなところです・・・

 

【今や人間の必然を追求する学的な仕事は、つまり哲学は、総論の語として説かれることが、一般に習慣となっている。「読書の学」はそれとはことなった方法で、人間の必然をさぐろうとするのである。

それが個別の言語を素材とするのは、一つの見解が先行する。個別こそ全体のもっともよき具現であるとする見解である。見解というよりも、それは「読書の学」に於ける確信といってよい。

それはまた、かつて歴史の学の確信でもあった。司馬遷は、「太史公自序」において、「我れ之れを空言に載せんと欲するに、之れを行事に見(あらわ)すの深切著明なるに如かざる也」と、孔子の言葉を引いている。個個の「行事」を叙べる歴史叙述の、哲学の「空言」に対する優越をいうのである。

「読書の学」が根底に保持する精神も、この宣言につらなる。個別の言語、それを空泛な哲学の言語よりも、個別であるゆえにこそ、「深切著明」であるとし、それによって、ひろく人間の方向を探求するのが、「読書の学」である。

「読書の学」とは、書物の言語によって人間を考える仕事である。書物の言語に即して思索することである。書物を、考えるために読むことである。】p273

 

(すこし難しい漢字もあるが、意味は字のかたちから推測できると思うので、辞書的意味は省略します。)

 

私は、出家する前に、こんな本を読んでいた。陽明学の本なども読んでいた。

・・・何時までも外側から眺めていても仕方ない。飛び込んで、内側から見るべきである。と思うようになったのであった。

 

・・・・

 

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顔が難しい

「かお」とか「め」とかいうのは容易だが、さて、彫刻刀で彫りこんでゆこうとすると、あれ、どんな形だったかな、目とまゆの所はどうなっていたかな、・・・など、分からないことだらけである。仏像のイメージは思い浮かぶのだが・・・自然に、鏡を見るようになって・・・自分に似てしまう。

こんなにも知らないのである。そして、これは技量の問題だが、彫刻刀をどこからどう当てて彫るべきか、なかなか迷いながらの手探りである。

このお地蔵さんの顔を完成するには、おそらくは、今までかけたと同じぐらいの時間をかけないといけないかもしれないと思っているところです。