地蔵菩薩像

当たり前と言えば当たり前なのだが;こんな初歩的な彫刻でも、やっていると次々といろんなことが考えられ、飽きない。

例えば、材質。

クスノキは、木目の方向が分かりづらく、彫刻刀を入れる方向としては、ときに木目に直角に入れると削りやすかったりする。しかし、ヒノキは、順目だとよく削れるが、木目に直角には削るのが難しい、というより出来ないと言ってよいような。

だから、今回の場合、顎と指先の間を狭くしたのだが、のどの辺りをどう削ったらいいものか、迷う。

そういうことに気づくと、何年もやっている方々が彫刻刀をあれほど沢山持っているのも、なんとなく分かる。ボクは必要になって買い足すようにしているのだが、まだ三か月目なのに、もう8本購入した、あっと言う間である。今回は増やさないで工夫をしたいところだ。

こういう道具があれば便利だろうなあ・・・とは思うが。我慢だ。

 

 

また。この地蔵菩薩像は、こけし、のような感じだなあ。と思うところがあり、顔の表情なども、すこし漫画的に強調して表現するべきなのかもしれない、などと思いながら、刀を動かしていたのだが、ボクにはどうしても、そういうことができない。思うけれども、出来ない。

何故かわからないが、地獄の底まで入っていくには、真顔でなければならないような気がするのである。かといってこの作品を見る人は、地獄の底に居るわけではないので、あんまり真顔でも、マズいかなあ・・・などと。ではどうすればいい?

 

そうすると、仏像は、願主の意向を酌んで制作されているのだろうが、その願主は何を思っていたのだろうか・・・とかいう方向で仏像を見ることになる。

以前、観音菩薩坐像を坐禅している姿で彫ってもらったことがある。おそらく世界に一体だけのオリジナルであろう。この坐像を見て、ある人が、和尚に似ているね、と言ったことがある。そんなことはないでしょう、と応えたが、後で考えるに、坐禅すると、誰も同じ(平等相)だから、あながち間違いではないかも、と考え直したことを思い出した。

 

オレは、最終的には、薬師さんの台座を作ることを目指しているだけなのだが・・・・

淡々と技術を磨きたいだけなのだが・・・・気が遠くなるほどの、迷いが、必要なのかな。

 

 

まよいが必要かどうかは分からないが、一つの技術を持たないでは、台座の制作は難しいだろうと。お薬師さんを引き立たせる黒子なわけだから。目立ってしまってはいけない。目立つとは、大抵は未熟で、なんかチグハグね、ということだろう。

 

運転免許を取ろうとした時もそうだが、(ボクは自信が足りないようで、)永久に取れそうもないと悲観的になったものだ。今度の彫刻でも、永久に台座に到達できないような気がしている。

 

お薬師さんについては、ボクの中では、未完のまま、が完成のような気がしている。・・・ただ、間もなくボクの手を離れるからには、それではいけない、とも、思っている。

それだけなら、自分で完成させなければならないということはないのではないか。

・・・・・・???

 

ちょっと意味は違うが、人間は考える葦である、という言葉が浮かんできた。

延々と、思いが流れ出す。途切れることがない。これは、(自信がなくて)迷っている証拠であろうか

 

・・・・・・・

 

今日になって、すこしだけ元気が出てきた。体調はほとんど平常に戻ったようである。