『ローマ書』

第一章25節に

彼らは、まことの神を偽りの神と取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えています。

とある。p524

 

彼らとは、異邦人のことで、異邦人とは、まことの神が分からない人、といえそうである。まことの神とは、造り主の事である。

では造り主とは。造られたものではないものであろう。

 

造られたものではないものとは、造るものであろう。創造主、というものも、対象的に考えられる限り、造られた物であって、造るものではない。

では、対象的に捉えられたものではないものとは、どうすれば・・・

 

造るものとは、見るもの。見られるものではなく、見るもの。主体であって、客体ではないもの。

 

心で心を見ることは出来ない。対象を見ることは、対象を外から観察する事であって、言ってみれば、恋愛や結婚に憧れていることと、恋愛中や結婚生活は、まるで、別物であるようなものである(例えが適切ではないかもしれないが)。

そのものがそのものである、ことは、どんな意味でも対象ではない。対象的には捉えられない。活発に活動し躍動している、そのもの。なまもの。

ということではないか。

ただ、そういってしまえば、それはまた、

そのものとは似ても似つかない。混沌に孔を穿つようなことである。

 

・・・

 

わたしが読んでいる本は『新約聖書フランシスコ会聖書研究会訳注 

カトリックの聖書は、訳注がついていて、親切である。そのかわり、ページ数が多くなる。この本も、970pもある。

ペルーでもらった『聖書』は、辞書のような薄い紙を使って活字も細かいのだが、それでも恐ろしく分厚い。それで、新約は、こちら『新約聖書』で読む。

 

そんなに何回も目を通したわけではないが、新約聖書を読む限りでは、教理の骨組みが、仏教と兄弟のように似ている、というのが私の感想である。