票田

近頃のニュースを見て、感じたことの一端。個人的な感想です。

 

統一教会があれほどまでに、政治に深くかかわっていたということは、約30万票といわれる票田ということが大きかったように思う。

そういう、邪道に落ちてしまった原因は、やく600万票といわれる、創価学会の票が、公明党と野合することによって、容易く手に入ったことにあるような気がする。

 

一票一票積み重ねてゆくよりも、纏めてどっと入るなら、これほど楽は無い。そして、その楽をする味を覚えてしまったら・・・後戻りが出来なくなる・・・ということだろう。

その票を、配る立場に立てば、自ずから、人を動かす力が手に入る。

少しでも不安のある候補者(大半だろう)は、その纏まった票に(それを取りまとめている人に)、尻尾を振る。

 

今度政務官になった小野田紀美参議院議員は、公明党からの推薦をお断りする形で戦い、トップ当選をしたという。

小野田議員個人の力も勿論大きいのだが、その上に、投票する側でも、いつも公明党とつるんでいる自民党員の姿を苦々しく思って見ている人が沢山いるということでもあろうか。考え方が違うのに、票が欲しいからつるんでいる、としか見えないのだ。

 

票の取りまとめというのは、何も公明党だけではなく、労働組合なども、日教組などもやっていたことではあるから、違法ではないのだろうが、そういうものに所属しないで、自分の判断で投票する者としては、多数の横暴と見えてしまうことも多い。

 

結局、その多数を無視できないだけでなく、便宜を図る(取引する)ことになるのだろうなあ。と。

 

わずか30万票で、これだけ深く食い込んだというのは、ちょっと考えさせられる。

 

仏教に〈貧者の一灯〉という言葉がある。ささいなお布施ということだ。托鉢などの時に、10円とか5円とかを喜捨する。ああいう感じであろうか。

実はこの言葉は、もう少し、長い。対句になっていて、〈富者の万灯、貧者の一灯〉。

お寺の山門を個人の力で建て直したり、多額の寄付をする人が現れたりする。

まあ、富者の万灯である。

しかし、お寺も、その富者を大事にするばかりで、一灯を忘れていると、檀家信者はいつの間にか離れてしまう。気づいた時には、教えの実態は何処? 中身スカスカ。

 

自民党は、どっち向いているのか、と言われて久しい。来るところまで来た、という感じであろうか。

 

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今日は、入れ歯を外して、一日を過ごした。早く慣れなければならないことは分かっているのだけれども・・・口に物を入れるたびに、少なくとも、朝、昼、お八つ、夜の4回は、入れ歯を外して手入れし、口をゆすがなければならない。その煩わしさたるや。