歯医者の診察台の上で考えたこと

診察台が4台ある。だから、坐ってから自分の番が回ってくるまでには、かなり時間がある。正面に見える窓の外は、栗林であろうか、梅林であろうか。メガネを外してしまっているのでハッキリしない。

 

今日は前歯を抜くことになっている。

 

ふと。悟りについて考えた。今まで何度も考えていた題目である。

意識が一番大事ならば、意識よりも深いところがないならば、それを無視できるなら、無いと思い込んでいるならば、悟りは無い。と言い切れる。

そうだとすると、そう思い込んでしまえば、その人が、何らかの原因で深い深い恨み心を抱いている場合には、それから解放される機会はほとんど訪れないだろう。

意識で意識を書き換えることは、出来そうにもないから。恨みを持ったまま死ぬことになりそうである。

 

せっかく生まれてきて、憾み辛みの中で死んでゆくのは哀れである。とくに、そういう人は、死んでしまえば同じことだと考えている可能性が高いだろうから。

意識が全てであると考えているなら、すべてを受け入れて、お任せして、去ってゆくのが、一番分かりやすいのだが。そうでないなら、思いが残るだろうなあ、と。その思いも込みで死んでゆくのだから。残念である。

 

悟りという言葉で考えられている内容は、いろいろある。誰も見たことがないので、あれがそうなのだろう、これがそうなのだろうと、推測して考えるからであろうか。

 

ボクが悟りというのは、その中の一つ。華厳経の最初の10数ページに書かれてあることです。意識が生まれだす現場に立ち会う、ということである。

それ以前には遡れない、というのも、それより前では意識が働きだすことが出来ないから。

もしも、この現場に、恨みを持つ山上容疑者のような者が立ち会ったとして、かれの恨み心が解けることがあるだろうか。

 

ボクは、本当に、立ち会うことがあるならば、雪解けは起こる、と信じているのだが、ただ、ヒトは見たものを今の先入見で解釈してしまうのが一般だから、見て見ない、ということもありうる、と思うのである。

 

見たものを見たように見るのは、簡単なようで簡単ではない。

 

まあ。そういう場合、肩の力が抜けて、呆然とした様子をしていることが多いので、そとから何とか推測は出来るだろうが。

 

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今から歯を抜かれる。そこから出来るだけ遠くに行きたかったのかも知れない。

抜歯を終え、歯医者から外に出て、すごく肩が凝っていることに気づいた。よっぽど緊張していたのである。