『李斯列伝 第二十七』何度読んでも、凄まじい。
権力の甘い蜜とは言うけれど・・・
最初に読んだのは、まだ20代だったが、趙高に嫌悪をかんじたことを覚えている。
この頃は、吉川幸次郎さんの本をよく読んでいた。多分その延長で、中国の古典を読むようになったのであった。
次は40代だったが、不快感はあったが、当時の様子をあれこれ想像した。
この頃は、確か宮崎市定さんの本をかなり読んでいたのではなかったか。海音寺潮五郎とか藤沢周平も愛読していた。・・・
三回目は、たしか60代に読んだのだが、つい最近の事なのに、あまり覚えていない。
この頃は、世界史全般に興味を持ち、あれこれ乱読していたのであった。どちらかと言うと、ヨーロッパに関心は向いていた。たしかヘロドトスの「歴史」を読んで、中近東辺りに興味を持ち、同時代の中国はどうだったかという、興味の延長で、読み直したのではなかったか。だからこのときは、列伝の第4巻あたりを読んだのではなかったか)
今回初めて、趙高や李斯のやったことが理解できるような気がしている。
「刺客列伝」の中の、荊軻が高漸離の楽器に合わせて、・・・易水寒く壮士一たび去かば・・・と歌うところとか、秦舞陽が顔色を変えてぶるぶる震えだすところとか、も そうなのだが・・・。
そういう小説的な細部が、興味深い。
・・・こんな感想を持ったのは、以前もそうだったのかも知れないが、覚えていない。それ以上に、歴史の流れの方に気を取られていたということでもあろうか。・・・
・・・つまりは、司馬遷の資質がそういう粉飾をさせているのであって、事実は分からないではないか、といった風に考えてしまっていたような。
この後『項羽本紀』とか『高祖本紀』とかにも手を伸ばすかどうかは迷うところである。・・・いつも、そういうわき道に入ってしまうのが私の悪い癖だ、今回は、ともかく、「列伝を最後まで読む」ことに徹することにしよう。まだ、5巻の内の2巻なのだし。それに、大筋(歴史年表的な)の事は知っているのだから。
追記:次の「蒙恬列伝 第二十八」に、何故趙高がああいう秦帝国を滅ぼすような大それた謀反を起こしたかが書かれてある。(この節は今まで読んだ記憶がない。今回が初めてである。いや。完全に忘れてしまっただけかもしれない。それはそれとして、疑問氷解)
・・・全くの私怨である。私的な恨みを晴らしたかったのだな。(最初は権力の甘い誘惑ではなかった。勿論恨みを晴らすためには力が欲しかったのではあろうが、それ以上ではなかったようだ)
アリの一穴、という言葉を思い出した。
毘盧遮那仏の世界というのは、何でもアリだなあ、と改めて思う。
これ以上には進めない。