大げさな題目を掲げたが、書くことは、日々の選択ということだ。
その時その時、迷いながら、何かを選び取って歩んできた。
あとで振り返る時に、あれが岐路であったと思うことが簡単に決断されたこともあるし
大いに迷ったことが、後では笑い話のようなこともある。
今。ここに来て1年経過してみると、引っ越しはすこし早すぎたかなと思うところもある。
ところが、当時、毎日不整脈を意識させられていた時には、
何時何が起こっても不思議ではない、と思われて
あれやこれやを考えあわせた末に、引っ越しの方に動いた。
狭心症ということを決断するときに優先させたのであった。
逆に、あそこでの人付き合いをもう少し密にして、様子を見る方向もなかったわけではなかった。今不整脈と上手に付き合えるようになったところから見れば、優先順位を間違った、感情的過ぎたのではないかとも思える。
その岐路の決断を補強したのは、どういう理由であったか。
物忘れが激しくなってきていて、話している最中に、何を話題にしているのか忘れてしまうということが起こり始めていた。すると突然、(自分に対して)怒りが沸き起こり、話を混ぜ返すということがあった。そんなに頻繁に起こるということではないのだが(たしか2回ほどあった)、これは本人には相当の衝撃である。でも、これは徐々に増えてゆくことが予想された。これは人間関係を密にすることを躊躇させた。
若い時の優先順位と、歳をとってからのそれはすこし違うように思う。というのは、若い時にはある程度楽観出来た未来が、歳をとると、予想できなくなる。
失敗を取り返すチャンスは、無いとは思わないが・・・ある日突然、ただ歩いていただけなのにアキレス腱を損傷するとか、小さな段差に躓くとか。
昨日できたことが明日できるかどうか、楽観視できなくなる。
心の問題も似たようなことだ。予想外のことで躓く。
そういう時(老齢を意識し始めた時)に、優先順位とはどういう物なのであろうか。
かなり個人的な事情に左右されて、一般的な話がし辛いようにも思うが・・・
家族と一所なら、また話は別だろう。ボクは一人になってしまっていたので。
ボクの父は、83歳ぐらいの時に車の運転を止めた。結構車が好きで、2年に一度ぐらい買い替えていたのを記憶している。最晩年はどうか知らない。
また止めた理由も知らない。しかし、75歳かそのころに助手席に乗せてもらったことがあるが、ちょっと怖かった。急発進・急停止と感じられたからである。
その時、もう止めた方が良いよ、と忠告したが・・・、夫婦でドライブするのがやめられないで、結局
それから10年近く乗ったことになる。”夫婦でドライブ”の優先順位が高かったということだろうか(家族がいるということは、決断が簡単ではないということでもあろう)
姉が、今回、75歳の誕生日を機に、運転を止めることにした。免許の更新をしなかったという。75歳を区切りにすると決めていたらしい。
ボクは、大したこともなく過ぎて良かったなあ、と思うと同時に、これから買い物に出るにも、往復1㌔以上の道を歩くことになるのだが大丈夫かな、と心配している。最低でも一週間に一度は買い物に出ることになるのだろう。いままでほとんど歩いたことがないようだし・・・。
ここはバス利用は比較的便利なところである。
歳をとると、自分の都合を優先するようになる。それはボクにも分かり始めている。
もう人のためにすることが難しくなってきているし、他人に合わせて動こうとすると無理だと感じることが多いし、黙っていると迷惑をかけてしまうことも出てくる。
自然に、自分と相談して動くようになる。
わがままと思われるのとの境界は難しいところであろう。
・・・・・・・
最初書きたいと思っていたことと、話が随分ズレてしまったが、これはこれで、消さないで置いておく。