『蟻の棲み家』と『神の手』を読んだのだが、『神の手』を読んでいて;
あれは何時の頃か忘れてしまったのだが、北九州の何処かで、女子高生が、友達を殺して解剖するという事件があった。その後の調べで、最初は自分の父親を殺して解剖するつもりだったが、失敗してしまい、相手が友達ということになった、というようなことであったと思う。これを思い出した。そのころ、盛んにサイコパスという言葉が言われた。
この小説には一言もサイコパスという言葉は出てこない。
サイコパスと言うと、更に数年前、或いは十数年前かな。神戸で高校生Aが起こした「さかきばらせいと」事件がある。
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「さかきばらせいと」では、ぼくの身近でも、事件ではないが、あることが起こった。
或るおばさんが、”自分はそのさかきばら青年と神戸電鉄有馬線で乗り合わせて話したことがある。その時は賢そうな高校生だと思っただけだったが、あとであの事件があって驚いた”というのである。
如何にも実際にあった話のように、細部まで丁寧に話すので、ボクは信じてしまった。その話をある折に知り合いに話したところ、”あのおばさんは嘘つきだ、騙されてはいけない”といわれた。
あの人が嘘つきだって・・・ちょっと信じられなかった。
出自も経歴も申し分なく、話題も知識も実に豊富である。ボクは、その地に行ってまだ日も浅く、会うたびにいろいろと教えられたのであった。
ボクは当時「寺たより」を発行していて、檀家一軒一軒配って歩いていた。まあ、土地に慣れるという意味もあったのだが。そんな折に顔を合わせると、話をしたのであった。
話はすべて自慢話のようになっていく・・・たしかにボクに教えておきたいことだったのだろうと思って聞いていた(なにしろボクは其処の事は何も知らないのだから)のだが、だんだん、それ以上のように感じた。
何年もするうちに、家の中の不満、地域に対する不満、人生に対する不満のようなモノが、愚痴という形ではなく、嘘の創作という形を取るようになったのではないか、と思うようになった。
もう、おばあさんなのだが「・・・のお嬢さん」という人もいた。実際そうだったのだろうが、戦後没落してしまい、いまは半分からかっているのである。
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『蟻の棲み家』は、アリ地獄のような世界から何とか這い上がろうと藻掻く主人公の話とも読める。『蜘蛛の糸』ではないが、その地の住人は、這い上がろうとする者の足を引っ張る・・・自分も抜け出したいというのとはすこし違うようだ。
阿弥陀様ではなく、子どもの時から見守ってきた地域の住民が、それとなく助けてくれる・・・糸は何度も切れそうになる・・・
頭の中ではそれなりに書くことが分かっているつもりだったのだが・・・
そうとう長くなりそうで、纏まらなくなってきたので、中断。
来年続けるかどうかは未定です。(たぶんこれで終わりでしょう)