昨日の記事で・・・

有機体の神的作用への愛、おお汝唯物論者よ!・・・なぜに脳の分泌物たる思想が、物質の属性たる重力よりも不思議さにみちているというのか。それはわれわれの傲慢、われわれのわれわれ自身に対する賞賛。】p32

 

これを読んだときに、禅は唯物論だなあ、と。

今ここに参じることを至上として、思想を第二第三の事とする。

それもこれも

思想を第一とする習性を直視してのことだろう。

思想は争いを呼び寄せる。

 

サルに、或いは、イヌに言葉を与え語らせたなら、ボクたちよりも雄弁とは言えないだろうが、似たような思いを吐露するのではないだろうか・・・それは

何処まで遡るだろうか・・・金魚まで?

金魚鉢を覗いていて、心が通うような気がしたことはないだろうか

閉じ込めておいて勝手な言い分ではあるが。

 

日本人には、人間と動物の間に、深い溝があるとは感じられない人が多いだろう。

ボクはそうだ。

 

犬を飼うなら、マウントをとられないように注意しなければならない、躾をちゃんとする事。

それは人間も同じことで、甘やかした子供には親はマウントされてしまう。

 

雑然と、いろんな思いが湧く。

犬だってそうだろう。

ただ、言葉が、それを増幅し豊かにしたのは確かなことかもしれない。

 

しかし、言葉は・・・・最初に戻ってしまうなあ

・・・・・

「初めに言葉ありき」(ヨハネによる福音書

ダーウィンには多分これが意識されている。これが曲者なのだ。