『三国志』  7 (夕方追記)

玄徳は、新野の人々を連れて、逃避行を始める・・・このあたりを読み進んでいて、私はどうしても董卓長安へ逃れた時のことを重ね合わせてしまう。

・・・何故止めない???

連れていかれた人々は、新しい地で開拓民になるのか?

何を考えていたのだろうか?

負けてばかりいて、おまけに荊州を奪うつもりもないというのでは、どうするつもりだったのか。無責任ではないのか。

 

この巻は読んでいて疑問が多く、腹立たしいだけである。孔明は、まだ全く無策である。

 

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この辺は事実と大きく食い違っているのだろう

 

そんなことを考えてしまう。

 

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諸葛孔明』 宮川尚志 著 (桃源社)

かなり古い本である。1978/3/10 読み終わった印がある。

この本の初版は昭和15年とか。そして手にしているこの本は、その時から37年後に、別の出版社から、新版を出したときの本のようである。これも本棚の奥でほこりを被っていたのを引っ張り出した。

第一の目的は、劉備の逃避行に住民がついていったのかどうか、知りたかったからだが・・・というのも、もう手元には、調べたくても、吉川さんの本とか魯迅の本とか、その他、何も残っていない、全部ヒトにあげてしまったから。

この本によると、ハッキリしないが、どうも住民はついていったらしい。

 

(図書館は歩いて行ける距離にあるのだが、ここは都会なので、おそらく利用する人が少なくないと思うので、しばらくは遠慮しようと思っている。)

 

 

 

 

『三国志』  6

赤ん坊の鳴き声かな。猫が鳴き始めたのである。

数日前から、朝方の小鳥の声も、すこし変化してきた。明るく感じる

寒さは続いているが、春はすぐ近くまで来ているようだ。

 

三国志』第三冊を読み終わった。徐庶から孔明の居場所を教えられたところである。孔明は、それを聞き、不愉快になり、旅に出てしまう。

 

袁紹の最期にはなかなか考えさせられる。どれだけ有能な人が周りに居ても、使いこなせないで、滅びてゆく。使いこなせないというのは、どういうことなのか。

激しく動いている状況に付いてゆけないで、我が突出してしまうように見える。

時代の先を見ているのではなく、現状を維持したいと願っていると、こういうことになるのだろうなあ。赤の女王の支配、という言葉を思い出す。

時間ヨ止まれ、と言っても、それは無理なのだ。

 

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漱石とその時代』金之助がやっとやる気を出してきた。姓も夏目に戻る。

第一部 140p辺りです。

 

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ボクの身体も春めいてきたのか。心臓が微妙に存在を主張している。

大人しくしていてほしいのだが。

 

 

 

 

 

 

『三国志』  5

吉川英治さんの劉備像はなかなか面白い。時代を反映しているものなのか。お母さんが出てくることによって、孟母三遷を思い出してしまった。

宮城谷昌光さんの本は、ちょっと難しい。蘊蓄というのか、時代背景というのか、それが続き・・・時代小説マニア向けと言った感じかな、と。

 

両方とも第一冊のさわりだけ読んだだけであるが、岩波文庫の旧版のほうに戻ることにした。

第三冊目に入って、関羽顔良を切り、漢壽亭侯に封じられたところまで来た。このあたりは、関羽がどういう人なのか、その人となりが想像できるような感じがする。

全くぶれない。現実の中でたえず利に迷ってフラフラしている者としては、こうありたいものだと思わされる。

 

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漱石とその時代』なかなか面白い。

『道草』と『硝子戸の中』からの引用が多い。これらは自伝的な作品と言われているらしい。

ボクは、『道草』は、読んでいない。どうも、これはホラーなのかというような書き出しが苦手で(ホラーはあまり好きではない)、本は持っている(そうとう古い本、角川書店夏目漱石全集12昭和49年の初版)が、数ページしか読んだことがない。『硝子戸の中』はこの本の中にもあるが、読んだのは岩波文庫であったろうか・・・ずいぶん昔のことである。これは一応さいごまで読んだ記憶がある。

 

江戸人にとっての、明治維新の後の様子が、よく描かれている。と感じる。

 

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EUから離脱したイギリスは、経済を回さないことには生きてゆけないのだろう。10年先を考えると、この選択(プランAで行く)は過っていなかったと評価されるのではないかと思われる。

劉備は、その時その場を精いっぱい生きているように見えるが・・・先の事は考えていない・・・ように見える。先の事まで考えられないような、弱い立場に居て、木の葉のように翻弄されているとも思うのだが・・・如何なのだろうか・・・

イギリスに比較するとき、日本も、先のことをどのような考えているのか、と、劉備に重ね合わせて考えてしまう。

 

新聞の折り込みに、「金をお売りください」というチラシがしばしば入ってくる。それを見ると、金がg7,000円にもなっている。たしか数年前にはg3,000円ぐらいであった。たった数年で、2倍以上になっている・・・これは、円が半分以下に下がっていることではないのか・・・。・・・・・。不安の顕われではないか、などと考えてしまう。

 

 

 

 

 

三国志  4

講談社文庫の、三国志(一)吉川英治歴史時代文庫33を手に入れた。

有名なこの本が、どういうものなのか、さわりだけでも読んでみようと。

 

なるほどなあ。小説家というのは!!!

最初の100ページ程読んだが、驚いてしまった。目が覚めるような書き出しである。

 

・・・宮城谷昌光さんの『三国志』も、さわりだけでも、読んでみようか。こちらも、小説家の作品だから。

 

ボクはいままで、吉川幸次郎さんとか宮崎市定さん(学者)の三国時代に関する本は読んできたのだが、小説は、岩波文庫だけである。この際だから(これが最後だろうから)、面白そうなものを、幾つか同時進行で読んでみようと考えている。

 

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漱石とその時代』新潮選書 江藤淳(全2冊)

これは、1971年8月に読んでいる。だからこれも50年ぶりの再読である。

これも再読だから、慌てないで、ゆっくりと。

 

 

三国志   3

袁術を攻めるために出陣し、留守を張飛に任せた。その張飛が酒癖の悪さを発揮し、城を乗っ取られて、玄徳に泣きついたときの、玄徳の言葉

【「手に入れたとてうれしくもない城を、失ったとて気をおとすことはない。」p58

「兄弟は手足のごとく、妻子は衣服の如し。衣服は破れても、縫い付けることが出来るが、手足がちぎれたら、つぐことはできない」とは古人のことば。われら三人は桃園に兄弟のちぎりを結んだときから、同じ日に生まれなかったのは、ぜひもないが、ねがわくは同じ日に死のうと誓ったなかではないか。云々」p61】

 

物事の優先順位が、面白い。・・・たしかに、これでは、大きな集団を統率するのは難しそうである。徐州の牧になったとて、曹操に操られる駒になるだけだと達観していたのかも知れない・・・。また、妻子は信を寄せるに足りないと思っていたのか。戦乱の中では、城に定住する気持ちがないなら(あるいは、今のところを拠点に勢力を拡大するつもりがないなら)、足手まといの側面は大きかったであろう。

髀肉之嘆の頃までは、城を持ちたいとは思わなかったのかも知れない。

 

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三国志 第二冊に入りました

曹操が天子を許都にお連れするところまで来た。

着々と人集め(というより人が自然に集まってきて)をし、もう敵対する人も少なくなってきている。国家の柱石という感じである。

ここまで読んできたところでは、曹操がずば抜けた存在感を持っているのだが・・・どうやら主役ではない。憎まれ役らしい・・・何故か。

少年漫画の世界でも、ライバルはほとんど全てのものを持っていて、主役は、努力以外の何も持っていない、ということが多かったように思う。

まあ、庶民のなかで語られた講談のようなモノの中では、似たようなことがあるのだろうか。というのも、庶民はその主役のように何も持っていない訳だから。自分の身近な存在が英雄になる、それに拍手する。そういう事だろうが・・・。

 

李かく・郭汜(天子を手籠めにして悪のかぎりをつくした将軍たち)などは、明らかに異民族のような気がします。長安から洛陽周辺には、そうとう沢山の異民族が動き回っていたような・・・というのも、五胡十六国時代の様子(後先考えずに今を楽しもうとする)とすごく似ているから。・・・友と言えども信用ならないような・・・。

 

劉備はなんか信用ならないところがある(水滸伝宋江も、偽善者のようだったが)が、義に厚い。そこは信用出来る。これも主役になれる資質ということか。曹操計算高いようなところが見える。劉備には、計算しない、確信犯的なところがある(それが偽善的に見えるのだが)。

 

こうして書いていると、将棋のKさんを思い出す。彼は曹操びいきの三国志ファンだった。というより、張飛好きの、というべきか。

将棋の勝負がはやく着いてしまった時など、よく三国志の話をした。かれは司馬懿にも興味を持っていた・・・彼が読んだ本は何だったのか・・・

三国志は漫画にもなっているし、ゲームにもなっているようだから、ボクなどの知らないことは沢山あるのだろうが・・・司馬懿とは!と思ったものだ。

ボクが第十冊を買わなかったのは、多分司馬懿があまり好きではなかったのではないかな。

いろんな思い出すことはあるが、今回はまあ、淡々と読み進めることにしよう。

 

 

 

 

三国志(三国演義)

岩波文庫全十冊

 

『中国中世史研究』を読んでいたら、読みたくなった。

 

ほこりを被っていた文庫本を取り出した。九冊しかない。・・・どうしてか。

 

・・・思い出した。

孔明が死んで、魏が司馬氏の手に落ちたところで読むのを止めてしまったのであった。だから第十冊は買ってない・・・今回は最後になるだろうから全部読もうと思って、改めて第十冊を購入しようとしたら、新版になってから久しいらしく、古いものは随分高価である。仕方ないので、新版の第八冊を注文した。新版は全八冊になっているのである。

 

最初は、1972年の12月7日に読み始めている。二回目は、74年の4月11日。三回目は78年の12月8日。最初に読んだのは、もう50年も前の事である。

今回は、何回目になるのか分からないが・・・最後まで読むのは初めてということになりそうである。この時代については、少しは知識も増えているので、忘れてしまったことも少なくないのだが、読み進む中で思い出すことも多いだろうから、まあ、愉しく読み進められるのではないかと思っている。

 

昨日、100pほど読んだが・・・あの裏切り者の呂布をどうして好きになったものか。まだよく分からない。当時のボクはよほど屈折していたのだろうと思う。

世の中になかなか認められない人に共感するなら、劉備など三兄弟が好きになってもいいはずなのだ(それが作者の求めるところでもあろうに)

 

それはそれとして。当時(50年前)は、9冊をやく10日で読んだようだが、今回はもっとゆっくり読もうと思っている。

 

晋の後華北は異民族の支配地になるのだが、それらしいことはこの時代にもはっきり表れていたに違いないのである・・・おそらくは呂布の生き方は漢民族の教養とは別のものである・・・荀彧や孔融のような文化人と、そうでない人々と、その場その場でどんなふうに動いたのか、興味のあるところである。勿論、この本が書かれたのはずっと後の明かそのころであろうから、当時の好みがそのまま表れているとはいいがたいだろうが。