杜甫は、牛肉を食べすぎて死んだという言い伝えがあるらしい。
ある役人に詩を贈ったところ、牛肉とお酒を送ってきた。それを食べすぎて亡くなったというのである。
杜甫の詩を読んでいると、いつも腹をすかしていて、腹一杯ご馳走を食べる機会はほとんどなかったような気がする。それで、もしそうなら
よかったね、とボクは思う。
腹一杯自分も食べて家族も食べたのなら、それは最高の瞬間だったと思うのだ。
十全とは言えないにしても、満足を得て亡くなったのなら何よりである。
この、杜甫の豚肉の話で思い出すことがある。
もう40年ほども前の事だから、おそらく覚えている人は誰も居ないかもしれない。
Aさんは、退職してから、湊川(?)公園の楠木正成像の掃除と、メリケン波止場の供養塔の掃除をしていた。そして、年に一度、修行僧を招いて、メリケン波止場で読経してもらい、近くの食堂でお坊さんを供養するのを、唯一の楽しみにしていた。
ある年、ボクもその中に居た。
Aさんはボクにお酒を注ぎながら言った。虎は死して皮を残す。人は死して名を遺す、という。それで自分は、どうしたらいいか考えて、思いついた。
楠木正成公の像に、銅板のプレートを作りそこに寄付者として自分の名を書いた。また、メリケン波止場にもプレートをつくり、そこにも自分の名を書いた。
嬉しそうに話す。
またお坊さんの供養が唯一の散財で、一年かけて貯めたお金でお布施をし、お坊さんにこうしてご馳走するのが、一番の楽しみなのだと。
ボクたちもよく飲んだが、Aさんもよく飲んだ。楽しそうであった。
翌日。Aさんの訃報が届いた。その食堂でそのまま寝込んで、目を覚まさなかったのだという。
先輩の修行僧が派遣されてお葬式をした。ぼくはまだ駆け出しの下っ端だったから、行かなかったが、ちょっと複雑な気持であった。
今は、人は一度は死ななければならない。Aさんの死は、いい死に方だったのではないか。と思っている。
死に方に、いい死に方も悪い死に方も無いだろう。それでも、いい死に方だった、と思う。
杜甫も、腹一杯飲んで食べて、死んだのなら、よかったね。









