ダーウィンは面白い

『人間の由来』(ダーウィン著)は、次のような言葉で終わっている。

 

【人間は、自分自身の努力によるわけではないとしても、生物界の最高峰に上りつめたことに対していくらかの誇りを持つことは許されるだろうし、人間がもともとその地位にいたのではなく、上ってきたという事実は、将来にわたってもっと高みにまで行き着けるかもしれないという希望を抱かせるものである。しかし、ここで問題にしているのは希望や恐れではなく、われわれの理性が発見できる限りでの真実である。私は、私の能力の限りにおいて、その証拠をここに示した。そして、人間は、もっとも見下げ果てた人間に対しても感じる同情や、他人に対してのみならず、最も下等な生物に対しても適用される慈愛の感情や、太陽系の運動や構成に対してまで向けられた神のような知性など、そのすべての高貴な性質にもかかわらず、これらすべての素晴らしい力にもかかわらず、そのからだには、依然として、消すことのできない下等な起源の印を残していることを認めないわけにはいかないだろうと、私には思われるのである。】

 

この本が書かれたのは、1871年。150年前である。

 

それにしても、あらゆる生き物が、最初の細胞から命をつないで、今ここに生きている。どれも、同じ年月を経過している。ガーのように、一億年前からほとんどその姿を変えない生き物もいる。さらに、単細胞のままのものもいる。数はそちらのほうがはるかに多いだろう。

人間のように、激しく変異してきたものもいる。

人間は、いつの間にか、自然の中で生かされているというより、自然を作り替え、多くの資源を使って、独自の世界を作り出してそこに住むようになってきている。なぜ、人間だけがそういうことになったのか・・・

自分たちだけの世界(人間界)に住んでいるように感じていても、消すことのできない下等な起源の印(???)(動物であること)を忘れたり、過小評価するわけにはいかない。

 

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散歩していると、鉢植えの藤の花が咲き始めているのを見かけるが、自然の、木に巻き付いた藤は、まだ色づくまでには間がありそうだ。

竹林の中を歩く人の姿を見かけた。タケノコ掘りをしているのだろうか。