『法華経』 3

訓訳「妙法蓮華経」を通読しただけですので、内容のあることは何も言えません。通り一遍のことも言えないかもしれない。そういう前置きの上で

一番根本的なことは

方便品第二の

「諸仏世尊はただ一大事の因縁を以っての故に出現したもう」

如来は但一佛乗を以っての故に、衆生のために法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし」

「十方仏土の中には、唯一乗の法のみあり、二なく亦三なし」

「諸法は本よりこのかた、常に自ら寂滅の相なり」

「万億の方便をもって、宜しきに随って法を説きたもう」ということでしょうか

 

ただ、この事を伝えるために、いくら説いても、説き切るという事がない。

仏の長広舌といわれる所以であろうか。

もう一つのヤマは、この前ちょっと触れました「如来壽量品」のところでしょう。

 

日蓮さんがあの時代に於いて、法華経を仏教の根幹に据えたのは、法華経の中には、末世のあり様が描かれ、そこで法華経を信じるのがいかに難しいか、説かれている(第十三勧持品辺りから第二十常不軽菩薩品辺りだったかな)のだが、時代の中で、痛切に感じるところがあったのだろう(鴨長明方丈記などに描かれているような悲惨な世相、蒙古襲来など。法華経の信者が迫害されること、など)。

人が宗教に求めるものはいろいろあるだろうが、時代を越えたものだけでは落ち着けない。時代の中で悩み、時代を越えたものに憧れるのだが、解決は、その人のその場に戻ってくる。

時代を越えたものが現実にどう働きかけるか。

 

もう少しいろいろ書こうと思って書き始めたのだが、纏める力がない。

今日はここまでで。(早朝記)

読み返してみて、舌足らずだなあ。少し補足を。(夕刻記)

 

日蓮主義者があのような事件を起こしたというが・・・その理由などは、法華経を読んでも、よくわからない。なぜ大東亜共栄圏というところに法華経がつながるのか、見当もつかない。

人は、同じものを見ても、同じような感想を持つとは限らないからなあ。

田中智学さんの本を読めば少しは分かるかもしれないが・・・いまは深入りするつもりはない。

日蓮さんは・・・おそらく如来壽量品が当時天台宗ではかなり研究されていたと思うので、その辺に、日蓮さんに近づく道があるのかもしれないが、これも深入りするつもりはない。

 

せっかく読み始めたので、『仏教聖典』はゆっくり読みすすめようと思う。

今はまだ「仏伝」のところ、ほんの初めのところである。この本の中には、めぼしい経典の一部が、インド、中国、日本の部に分かれて載せてある。