『法華経』 2 (25日一部添削)

今朝は15.6℃まで下がりました。ほんの数日前までは25℃ぐらいでしたので、一気に、という感じです。この揺さぶりが老体には応える。

ストーブを出す必要がありそうです。

 

妙法蓮華経 第六巻 如来寿量品 第十六 まで読みました。

 

この如来壽量品は、とても重要なお経です。

このお経の中で、「お釈迦さまは、インドで数十年前に生まれ、40年前に悟りを開いたばかりではないか、それが何時こんなにも多くの素晴らしい弟子を育てたのか」(第十五 従地湧出品 を受けて)という問いに答えて、

実は、自分は、はるか昔、数えられない昔から、悟りを開いて、弟子を育てていたのだと、答える。

 

ここから、多分、”一切は悟りの中にある、生けるものはすべて悟りの中に居る”という考え方が生まれた。そして、迷っているつもりであったが、実は悟りの中に在ったのだ。そのことを、知らないがゆえに、迷っていたが、そのことを知ることが大事なのだ。(悟りの中にいると知れば、何をやってもいい。知らないと、ダメだ、迷いから抜け出せない。)という”本覚思想”(天台宗の中で生まれた一つの思想)というのが生まれた。

 

ところが、知っただけでは、安心は得られるのかも知れないが、行いが革まらない。それからは、やりたい放題で乱れていく。目も当てられない。

 

これはおかしい。そんなはずはない。それなら何故、修行をするのだ。お釈迦さまが悟りを開いた後でも、お弟子たちは厳しい修行をしてきたじゃないか。おまえらは、知識に溺れているだけで、破戒し放題ではないか。根本的に間違っている!という疑問が生まれる。

そして、(さとりの真っただ中にいるからこそ)「修せざれば現れず。証せざれば得ることなし」(ある意味、厳しい修行と、悟りとは左手と右手のような関係・表と裏の関係である、切り離せないという教えが出てくる。)

 

しかし、道元さんはそう示したのだが、他の考え方をした人が居たかもしれない。おそらく居た。

それは兎も角、先を読もう。

 

久しぶりに、法華経を読み始めたら、同時に『仏教聖典』(三省堂)も読みたくなった。それで、それも同時に、こちらは文字も細かいし、ゆっくり読み進めている。

(この中には日蓮さんの書いたものも少しだけある。)

 

仏教関係の本を手に取るのは本当に久しぶりである。病気になってから、(今まで読まなかった)他の本ばっかり手に取っていたなあ・・・