自分は神からアテネに遣わされたアブのようなものである、という言葉が『弁明』にあるが、
『ゴルギアス』を読んでいると、確かになあ、と思わされる。うるさい奴や
こいつは話し相手になりそうだと目星を付けると・・・目星を付けられた方は災難やな・・・観客は喜びそうである。
『ゴルギアス』を読むのは今回初めてであるが、ソクラテスの”対話法”というのがどういうものだったのかを知るには一番いいかもしれない。
対話法のかなり完成した形のようにも思えるので、対話法というのは実はプラトンが完成したのであろうとも思える。ソクラテスは、もうすこし人を笑わせながら、ねちっこく話しを進めたのではないか
中公クラシックスには、『弁明』と『クリトン』『ゴルギアス』が収められている。
弁明で死刑判決を受け、親友クリトンから脱獄を勧められるが説得し、『パイドーン』で毒杯をあおぐ。中公クラシックスには『パイドーン』は入っていない。代わりに、『ゴルギアス』これはかなり長い。330pぐらいある。一体ソクラテスはどんなことをして人々の憾みを買うことになったのかが、よくわかる対話が選ばれたのであろう。それだけではないかもしれないが・・・。
もっともソクラテスらしい、それが恨みも買う、のではないだろうか。アブだから。
ここに『パイドーン』が選ばれなかったのは、死というものを巡っての対話が、実際に有ったことと言うよりも、プラトンの考えであろうと思われるからではないかとも思うのだが、よく分からない。『弁明』にその兆しのようなものは感じられるので。
プラトンを読むのはそれこそしばらくぶりであるし、まだ途中なので、よく知りもせんことを知ったかぶりで話をしているわけであるが。
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他の本も読まなければならないのだが、体調がよくないことにかまけて、疎かになりがちである。散歩もどうしようか、迷っている。
まあ、天気の具合を見て。
なるようにしかならないのだが、無理はしないでおこう。