『荘子』第二 斉物論篇 より 3

【さて、ことばというものは、口から吹きだす単なる音ではない。ことばを口からだすものは、何事かをいおうとするのである。ただ、そのいおうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。

もしことばの内容が一定しないままに発言したとすれば、そのいったことが、はたしていったことになるか、それとも何もいわなかったことになるか、わかったものではない。たとえ自分では単なる雛鳥のさえずりとはちがうと思っていても、はたして区別がつくかつかないか、あやしいものである。

それでは、道は何におおいかくされて、真と偽の区別を生ずるのであろうか。ことばは何におおいかくされて、是と非の対立を生ずるのであろうか。もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、ことばというものは、どこにあっても妥当するはずのものである。それが、そうでなくなるのはなぜか。ほかでもない。道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。

だからこそ、そこに儒家墨家との、是非の対立が生まれる。こうして相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非としたりするようになる。もしほんとうに、相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが第一である。】p38,39

 

道を覆い隠すものを取り除き、明らかにするには、是非の対立に陥っている議論を、止めさせなければならない。

そのためには、言葉というものを、もっと考察する必要がある。

 

【すべての物は、彼とよびえないものはなく、また是れとよびえないものはない。それなのに、なぜ離れているものを彼とよび、近いものだけを是れとよぶか。

離れている彼の立場からは見えないことでも、自分の立場で反省してみれば、よく理解することができる。だから身に近いものを是れとよんで親しみ、遠いものを彼とよんで差別しているにすぎない。

だから次のようにいえる。彼という概念は、自分の身を是れとするところから生じたものであり、是れという概念は、彼という対立者をもととして生じたものである。つまり彼と是れというのは、相並んで生ずるということであり、たがいに依存しあっているのである。

しかしながら、このように依存しあっているのは、彼と是れとだけではない。生に並んで死があり、死に並んで生がある。可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是をもとにして非があり、非をもとにして是がある。すべてが相対的な対立にすぎず、絶対的なものではない。

だからこそ聖人は、このような対立差別の立場によることなく、これを天に照らす・・・差別という人為を越えた、自然の立場から物をみるのである。このような聖人は、是非の対立を越えた、真の是に身をおくものといえよう。

もしこのような自然の立場、相対差別という人為を越えた立場からみれば、是れと彼との区別はなく、彼と是れとは同じものになる。たとえ是非を立てるものがあったとしても、彼は彼の立場をもととした是非を立てているにすぎず、此れは此れの立場をもととした是非を立てているにすぎない。それに、もともと彼と是れという絶対的な区別がはたして存在するのか、それとも彼と是れとの区別が存在しないのか、根本的に疑問ではないか。

このように彼と是れとが、その対立を消失する境地を、道枢という。枢・・・扉の回転軸は、環の中心にはめられることにより、はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場にたてば、是も無限の回転をつづけ、非もまた無限の回転をつづけることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。先に「明らかな知恵をもって照らすのが第一である」といったのは、このことにほかならない。】p41~43

 

今日はここまでにします。まだもう少し続きます。

荘子の面白さは、この「物をひとしく(斉しく)みる、ことが根底にある」とおもうのですが、そこを荘子はどう考えていたのか、という話です。